躾けと称して、子どもを虐待する事件が跡を絶ちません。
東京都目黒区のアパートで三月、
父親に殴られた後に死亡した瀬戸結愛ちゃん(5つ)は、
覚えたての平仮名で両親に許しを請う文章をノートに綴っていた。
「もうパパとママにいわれなくても
しっかりと じぶんから
きょうよりかもっともっと
あしたはできるようにするから
もうおねがい
ゆるして ゆるしてください
おねがします
ほんとうにもうおなじことしません
ゆるして」
(6月7日東京新聞1面より)
この記事を読んだとき、あなたはどのような気持ちになったでしょうか。
このいたいけな少女が、あまりにもかわいそうだという気持ち。
そして、この両親への怒りでしょうか?
でも、すこし立ち止まって、自分のこととして、この問題を考えてみてほしいのです。
彼女が書き残した言葉は「ゆるして」でした。
ゆるしてほしかったのです。責めないでほしかったのです。
わたしたちは、なんと、人を責めてばかりいるのでしょう。
その人のためといいながら、責めて、追い詰めてしまうのでしょう。
夫婦はお互いを
先輩は後輩を
先生は生徒を、
上司は部下を、
なぜ、責めつづけ、追い詰めてしまうのでしょう。
甘やかすと、ろくな人間にならない、からですか?
叱らないと、わからないからですか?
体で覚えさせないと、わからないと、叩くのがしつけですか?
それは単なる、「弱い者いじめ」「パワハラ」とどこが違うのでしょう?
そこに「愛」がなければ、意味がないのではないでしょうか?
そして「愛」とは、
相手を自分の思い通りにすることでも、
自分のために相手から搾取することでもなくて、
相手のために、自分を捧げることが、「愛」ではないでしょうか。
具体的には、相手のために、自分が損を引き受けるということ。
たとえ、相手が自分の思い通りにならなくても、
自分の自由を阻害したり、不利益をもたらすことがあっても、
「ゆるし」、受け入れようとする、勇気。
つまり、そもそも「躾け」ならよくて、「虐待」はいけないという話ではなく、
この「愛」の勇気のない、
しつけも、教育も、指導も
あらゆる批判も
この子を死に追いやった暴力と、
本質的には、なにもかわらないのではないでしょうか?
この「愛」という勇気のないままに、
「自分が損をしたくない」「自分が嫌な思いをしたくない」という、
そういう心の動機に支配されて、
言葉により、行いにより、
私もたくさんの暴力を振るってきた当事者ではないかと気付いて、
他人を責めることをやめて、
自分自身が変わっていきたいと願うことがないならば、
なんにも変わらないのだと思うのです。