旧約聖書のコヘレトの言葉4章2~3節には、一見すると非常にネガティブで後ろ向きに感じられる言葉があります。
「すでに死んだ人を、幸いだと言おう。さらに生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれてこなかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」
この言葉を初めて目にした多くの人は、その暗さに戸惑うかもしれません。しかし、この言葉の真意を深く掘り下げてみると、実はこれが非常に鋭い洞察力と感性を持つ人間の心の叫びであることがわかります。
「太陽の下」という表現は、この世界全体を指しています。私たちが日々目にする現実世界のことです。そこでは、権力者による不当な扱い、理不尽な事件、説明のつかない悲劇など、人間の理解を超えた出来事が日常的に起こっています。例えば、戦争や飢餓、自然災害、不治の病など、人間の力ではどうすることもできない苦難が絶えません。
このような現実を直視し、深く考える人ほど、時として生きることへの虚無感や無力感に襲われることがあります。しかし、これは決して弱さの表れではありません。むしろ、現実をありのままに受け止め、真摯に向き合おうとする強さの証なのです。
この感覚は、まるで小さな部屋に一人閉じ込められているような閉塞感に似ています。具体的な例を挙げると、新型コロナウイルスのパンデミック時に経験した長期の自宅隔離状態を思い出してみてください。外出できず、同じ空間に閉じ込められ続けることで、多くの人が精神的苦痛を感じました。その狭い空間が自分の世界のすべてだと感じてしまうと、どうしても虚無感や絶望感に苛まれてしまいます。
この閉塞感から逃れるために、人々はしばしば一時的な気晴らしを求めます。例えば、ソーシャルメディアに没頭したり、エンターテイメントに耽溺したりすることで、現実から目を背けようとします。しかし、これらは一時的な逃避に過ぎず、根本的な解決にはなりません。コヘレトの言葉が指摘しているのは、まさにこのような表面的な対処の虚しさなのです。
しかし、ここで重要なのは、この「閉じられた世界」という認識自体が、実は幻想に過ぎないということです。私たちが閉じ込められていると感じている空間は、実際には無限の広がりを持つ外の世界と、薄い壁一枚で隔てられているに過ぎません。
これを理解するために、胎児の例を考えてみましょう。母親の胎内にいる赤ちゃんにとって、その狭い空間が全世界のように感じられるかもしれません。しかし実際には、その赤ちゃんは母親の愛情に包まれ、外の広大な世界とつながっているのです。赤ちゃんには母親の存在が見えませんが、それは母親が遠くにいるからではなく、あまりにも近くにいるからなのです。
同様に、私たちの世界も、目に見えない無限の存在、すなわち神に包まれています。多くの人は「神なんていない」「神を見た人はいない」と言いますが、それは神が存在しないからではなく、神があまりにも近くにいて、私たちの認識を超えているからなのです。
この世界は、実は無限の愛を持つ神に包まれ、守られています。その神の愛が具現化したのが、キリスト教で言うところのイエス・キリストです。イエスは、無限なる神の世界と私たちの世界をつなぐ架け橋となりました。そして今もなお、私たちと神をつないでいるのです。
この繋がりを認識し、受け入れることを「信仰」と呼びます。信仰は、単なる教義や儀式ではありません。それは、自分を超えた大きな存在とのつながりを感じ、受け入れる心の在り方です。そして、この信仰から生まれる「喜び」は、外部の状況に左右されない、内なる平安と満足をもたらします。
つまり、コヘレトの言葉は、表面的には厳しく響くかもしれませんが、実は私たちに深い真理を伝えようとしているのです。この世界の苦しみや不条理を認識しつつも、それを超えた大きな愛と希望があることを示唆しているのです。この認識は、私たちに新たな視点と生きる勇気を与えてくれるでしょう。
牧師です。お話聴きます 牧師です。傾聴ボランティア、カウンセリングの経験もあります。