妹はきっと友達に誘われて教会学校に行ったのでしょう。
でも、当時の私は聖書は何の興味もなく、今後も読むことはない書物と思っていました。
時は流れ、就職して2年たったある夜。寮生活をしていた私のところに母から電話がきました。
今、家から飛び出して友人の家にいるというのです。会いに行くと、父に殴られ醜く顔が腫れあがった母がいました。
母はもう家には戻らないといいます。それからしばらくの間、長男であった私は、父と母の間に板ばさみになり、聞きたくない言葉の数々を聞く羽目になりました。
そして二人は別れます。
こんなことをつらつらと書くのは恥ずかしいことです。しかし、この出来事は私にって大切な出来事なので、書かないわけにはいきません。
それまで、男女の愛とかいわゆるヒューマニズムの愛に期待し、何の根拠もないまま自分の人生に淡い期待をもって生きていた私にとって、家族崩壊の現実は、未来への期待を放棄させる出来事でした。
さてそれをきっかけに、心にぽっかり穴が開いたような状態になります。
何をしても、その心の穴からみんな外に流れ出てしまうような感覚。むなしさをしりました。
そんなある日、三浦綾子のエッセーに出会います。クリスチャンの三浦夫妻の他愛ない日常の証を通して、冷え切った心の中に何か暖かいものが流れ込む感覚を覚えたのです。
当時は旅先の本屋で偶然手にしたと思っていましたが、今は、神さまの導きだったと思っています。
その体験以来、「涸れた谷に鹿が水を求めるよう」(詩篇41篇)に、三浦さんの言葉をあさり、そして聖書の言葉をむさぼるようになりました。
そして聖書の御言葉は、私が予想もしなかった、私自身の罪を鋭く指摘し始めていきます。
当時職場にどうしても受け入れられない同僚がいました。いつも自分の隣に座っているので、いやでも一緒に仕事をしなければなりませんでした。
もう、何ヶ月も挨拶一つせず、必要最小限の会話しかない。彼と顔を合わせるのは憂鬱だった。彼がいなければいいのにと思いました。
彼のあら捜しをしては心の中で責めていました。
しかしそんな私を今度は神の言葉が責め始めたのです。
イエスキリストは言います。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」。嗚呼、なんという言葉だろうか。心が痛みました。
しかし聖書から離れることはもはやできず、心が聖書を読むことを欲するのです。
そして自分がいかに自己中心であるか、罪を示されつづけ十字架の意味が嫌と言うほどわかってきました。
もうキリストしかこんな私を救えないと、本気で思うようになりました。
友人と酒を飲み酔いが回って人生を語りだすころになると、教会にも行っていないくせに、キリストのことを熱弁するおかしな人間になっていました。
それでも、教会に行く気はなかった。自分さえ信じていればいいと思っていたからです。
でもその考えは甘かった。私は、時折襲ってくるむなしい心に抗しきれず、すぐ罪の喜びの中に逃げ込んでしまう人間なのです。
あるとき、あの手痛いしっぺ返しをくらった。もう自分は教会にいかなければだめになると観念しました。
1991年の冬のことである。その半年後に行われた特伝の時、ザアカイの話を聞きました。
「もういい加減木から下りてきていいよ」とイエス様からいわれた気がして、アンケート用紙の「キリストを救い主と信じます」というところに丸をしました。
そしてあれよあれよという間に、信仰告白、バプテスマとあいなりました。