ふつうキリスト教入門というと、キリスト教の神様とはなにか、ということから説明を始めるわけです。
いわゆる「神論(しんろん)」といわれるものですね。
ただ、「キリスト教の神とは、創造者、絶対者、超越者」という説明を聞いても、面白くないし
「その神様がわたしと、なんの関係があるの」って、なるとおもうのですね。
だからここではいったん、神様から考え始めないで、
人間の避けられない現実から神様について考えるという方向で始めてみます。
考えるきっかけとして、「わたしは死んだらどうなるの」という問を取り上げましょう。
「死んだら天国にいくのさ」
「いや死んだらおしまい。なにもなくなって終わり」
「またなにかに生まれ変わるんじゃない?(千の風とか虫とか)」
もちろん「そんなこと、死んでみなけりゃわからない」
それがきっと正解です。
ただ、そもそも「死んだらどうなるの」ということを考えるのは人間だけ。
人間は自分が死ぬこと、限界を知っているわけです。
そして死んだ先のことまで考えるのは、
死をこえた世界を、人間は求めているということでしょう。
「目に見えないものなんて、存在しないよ」という人以外はね。
でも、人ってそんなに簡単に割り切れるものじゃないものですよ。
さて仏教の輪廻思想やギリシャ哲学の二元論は、
肉体は有限で滅びるけれど、人間のなかには、目には見えず滅びない「霊」があり、それは不滅なので、やがて違う体をまとって現れたりすると考えるわけです。
そうやって、生と死を何度も繰り返すような「苦」から解脱することこそが、目的。
生と死をぐるぐると繰り返す、いつまでもおわらないシステムは、
「誰か作ったのでもなく」「誰かが取り仕切っているのでもない」
そういう主催者はなく、ただ決められたシステムのなかで、生まれたり死んだりを繰り返している。
これはとっても合理的なかんがえ。でも、なにかむなしい。
さて、そういう仏教の輪廻に対して、聖書はその冒頭で、こう宣言します。
「初めに、神は天と地を創造された」(創世記1章1節)
この宇宙は神が作られた。
宇宙は神が主催している。
神が目的をもって、この世界を導いている。人に命を与え、奪うのも「神」。
だから、この世界に存在しているものは、世界を創造した「神」と、関わりがある
ちょっと理屈っぽくなってしまいました。
とにかく言いたいことは一つ。
聖書は、その一番最初から、
この宇宙は、無から「神」が創造した。
その宣言から始まる、ということです。
この宇宙も人間も、「神」が造られたのだから、
「神」との関係抜きには、その意味も、価値も、
死んだらどうなるのかも、わからない。
「神」は人間の必要に答えて、作りだしたものではなくて、
人間を作ったのが「神」
「死んだらどうなるのか」は、この「神」との関係が、決定的に大切ということです。
そして、実は「神」の側から、私たち人間との関係を求めてくださって、語りかけてくださっています。
「神」は人間に語りかけられる。それを啓示といいますね。そういう意味で、聖書は神の啓示の書。
その「神」の語りかけを受けた人々(イスラエルの民、クリスチャン)が、その証、神からの啓示を書き残したものが、集められて聖書(旧約、新約)となったわけです。
その聖書を通して、この世界を造られた「神」は、ご自分のことを私たちに伝えようとしている。語りかけている、人格をもった「神」
イエス・キリストは、その「神」を「天の父」と呼ぶようにおしえます。
「神」と「わたしたち」の関係を、親と子の関係に例えているわけですね。「神」はパーフェクトにあなたを愛している、天の親なんだよと。
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http://d.hatena.ne.jp/shuichifujii/20171201
聖書、キリスト教に関する質問に答えます 人生を豊かにするために、聖書の知識は役に立ちます。