やさしいキリスト教入門

「愛の極みクリスマス」(花小金井キリスト教会 クリスマス・イブ礼拝メッセージ)

投稿日:2017年12月24日 更新日:

クリスマス・イブの夜

今、ここにひとりひとりが、それぞれの生活、生活の現場から、ここに引き寄せられるようにして、集められてきました。

約2000年前のクリスマス・イブの夜

天使のお告げを聞いた羊飼いたちが、幼子イエスに出会いたい一心で

マリアとヨセフのいる場所へと導かれ、生まれたばかりのイエスさまと出会ったように。

この場に集ったわたしたちひとりひとりも、心に響く言葉に導かれて、この場に集い、イエス・キリストを礼拝しています。

今、ここにわたしたちが集っている、というこのことの、不思議さ、奇跡に心開きたい。

私の好きな言葉に、こんなことばがあるのです。

「奇跡とは、もとめるものではなく、気づくもの」

 

いい言葉でしょう。誰の言葉かというと、わたしが考えた言葉です。

もっとも、よく調べれば、すでに誰かが同じことを語っているでしょう。

「奇跡とは、もとめるものではなく、すでに起こっている奇跡に、気づくことなのだ。」ということを。

今日も、生きているという奇跡。

このわたしが、神に愛されているという奇跡。

いつの間にか、当たり前になって、感じなくなっている、神の奇跡に、神の恵みに、

今宵は、今一度、心の目を開いて、気づきたいのです。

 

それだけで、わたしたちは、この場所に集められた意味があるし、

きっと、ここから家に帰るこころは、喜びと、驚きに満ちあふれていることでしょう。

 

ワンダフルという英語は、ワンダー(奇跡)が、フル(いっぱい)という言葉でできています。

奇跡がいっぱいで、ワンダフルです。驚きです。

それは、今の日常が退屈で、生きる喜びもなくて、生活も苦しくて、

だから神に、奇跡を祈って、驚かせてくれという、そういう話ではなくて、

すでに、約2000年前のクリスマス・イブの夜に、

神は、驚くべき愛の奇跡を、この地上に行われていることに、

心の目が開かれ、気づかされるなら、

わたしたちの平凡な日常は、驚きと喜びに変えられる。ワンダフルな人生へと変えられる。

 

ヨハネの福音書は語ります。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と。

この天地を造り、あなたにいのちを与えて、ここに導いておられる「主」は、

独り子イエス・キリストを与えるほどに、この世を、あなたを、愛しておられます。

その独り子イエスは、やがてこの世の罪を背負い、あなたの罪を背負い、十字架の上で死んでいかれます。

それほどまでに、この世界は、そしてあなたは、神に愛されているのです。

この「神の愛」こそ、驚くべき奇跡。

この罪と、争いと、暴力にまみれた、世界でさえも、

怒りとねたみ、罪に汚れたわたしたちであろうとも、

神は、その罪あるこの世を、罪あるあなたを、

しかし、どうしようもないほど、

御子イエスキリストを、与えるほどに、愛しておられるのです。

このようなことがありうるのでしょうか。これこそ神の奇跡ではないでしょうか。

 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」

この愛の奇跡を、わたしのこととして信じる人は、幸いです。

 

有名な讃美歌「主、我を愛す」という讃美歌があります。

英語の歌詞は、「ジーザス・ラブズミー・ディス・アイ・ノー」です。

神は、わたしを愛していることを、私は知っていますと歌う歌です。

私は神に愛されていることを、知っていると、

そう心から歌うことが出来る人は、幸いです。本当に幸いです。

 

最初のクリスマス・イブの夜。

この神の溢れんばかりの「大いなる愛」は、

とうとう、幼子イエスという、具体的な一人の人の姿をとりました。

「神の愛」とはは、抽象的な、つかみ所のない、ふわふわしたものではなくて、

具体的で、触ることさえできる、一人の人間の姿を取ったのです。

 

最近、わたしの知り合いの牧師さんが、大きな手術をなさいました。

手術の前に、腰に打つ麻酔の針がなかなか入らなくて、30分も痛くて痛くてつらい思いをしていた時、看護婦さんがそばで、手を握ってくれた。

その手のぬくもり、温かさに、牧師さんは思いました。

「ああ、イエスさまが手を握ってくださっていると」

そしてホッとした。

神の愛。そして神の言葉とは、

抽象的で、ふわふわとした観念などではないのです。

神の愛は、具体的に、約2000年前の、ユダヤの一人の人の中に、

イエスという具体的な、一人の肉体をまとったのです。

それは、神がこの世界の痛みに、苦しみに、触れて下さる覚悟をなさったということです。

あなたの痛み、苦しみを、ただ宇宙の果てから、傍観している神ではなくて、

その傷み、苦しみに、手を添え、触れて、その痛みをご自分の痛みとして味わい、

最後には、十字架の上で死なれるほどに、あなたの痛みと悲しみに、

神は触れる覚悟をなさり、驚くべき奇跡を、神の独り子イエス・キリストを、

クリスマスの夜に、この世に生まれさせたのです。

 

イエス・キリストこそ、神の愛の実体。証。

神の愛のプレゼントそのものです。

それは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と聖書は告げています。

 

この「滅び」とは、神との繋がりから、切り離されてしまうということを意味しています。

「手」や「足」が、体から切り離されてしまえば、死んでしまうように、

わたしたちは、決して一人では生きられず、人との繋がり、世界との繋がり、

そしてその世界を創造した神と繋がっているから、生かされています。

その繋がりから、切り離されたなら、滅びてしまうしかありません。

 

永遠の命とは、ただ自分だけが一人、孤独に、永遠に生きるというような話ではなく、

神と、そして愛する人との、命の繋がりのなかに、生かされ続ける命のことです。

神の愛によって繋がり、生かされる命。それが永遠の命です。

 

今、神の愛を信じて、互いに繋がり、生かされる、この命の現実そのものが、永遠の命なのです。

 

たとえ肉体は弱く、その命には、限りがあるとしても、

愛のつながりは、決して滅びることがありません。

永遠にわたしたちを、つなぎ、生かし続けます。

 

Pexels / Pixabay

今日のみ言葉はさらに、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と言われています。

 

もはやこの世は、裁かれ、切り捨てられ、滅びてしまうことはないのです。

むしろ、神の愛を信じないことで、自分で自分を裁いてしまっているというのです。

自分で自分を苦しめてしまっている。光よりも闇を愛してしまっているとは、そういうことです。。

だから、この神の愛を信じてほしい。この光を信じてほしい。

決して切り離さない、神の愛を信じてほしい。

その神の愛の証、独り子イエスキリストを信じ、永遠の命の繋がりに、今日、今、生かされてほしい。

たとえわたしたちの肉体は弱く、病み、やがて死を迎えるとしても、

その弱いわたしたちの苦しみ、悲しみに触れるために、繋がるために、

人として生まれたイエス・キリストを信じる人は、

決して一人寂しく滅びることはないのです。

 

12月10日に、わたしの敬愛する、ある牧師さんが、天に召されました。

64才。牧師としてはまだまだこれからという時でした。

その方は、教会のホームページに毎週、牧師の言葉を載せていました。なくなる間際まで、奥さんが代筆をして載せていました。

ご自分の死を覚悟なさった11月21日の巻頭言に、その方のこのような言葉が記されていました。

 

「その日、結婚39年、私は初めて「結婚記念日」を忘れていた。

病の苦痛が平常心をここまで蝕むとは。

しかし、そんな大切な「記念日」を忘れていた夫に対し、一言も不平不満を言わずひたむきに介護を続ける妻の姿に献身的な愛を感じた。夫は涙する。

長女38歳、次女34歳、本当に立派に自立した大人に成長してくれた。

娘たちが幼児期から思春期にかけて、私は仕事の忙しさにかまけて子育てにはほとんど無関心だった。

ことに学校行事に関しては皆無と言える。さぞ寂しい思いを感じたことだろう。

しかし、今、そんな私に対して「心から尊敬している」と言ってくれる娘たち。優しさに満ちた言葉に父は涙する。

ある日、母が私の次女にこんなことを言った。

「パパは自分に与えられた仕事を精一杯、一生懸命やってきたのだから、自分の人生に悔いはないはず」と。

孫に対する祖母の最大限の励ましと慰めの言葉。

いや、違う。気丈な母の、息子に対する自分の思いを整理する渾身の一言だったに違いない。

93歳の父は、老人ホームに入居している。面会に訪ねた時、私に向かって「弱ったな」と言った。認知症を患った父のその時の顔は「真顔」であった。

「俺も頑張るからお前ももう少し頑張ってみろよ」との思いが伝わってきた。母親、父親の息子を愛おしむ言葉に息子は涙する。

「牧師先生はいてくれるだけでいい」という教会員の声が聞こえてきた。

「いてくれるだけでいい牧師」なんて「牧師」ではないとこれまで考えてきた。しかし、自らが病を負い、最も小さく最も弱く、最も惨めな姿をさらけ出した時、教会員が牧師の痛みを自らの痛みとして共に担おうとする姿に

「キリストの愛我に迫れり」の愛の実践の姿を見て、あえて「いてくれるだけでいい牧師」との言葉に甘えることのできる幸せを感じ、牧師は涙する。

すべては神が備えてくださったもの、家族、教会員、私の流す涙は

神への感謝のしるし。ありがとう。ハレルヤ!

 

今、彼の肉体は、目に見えなくなってしまいました。

しかし、今も神の愛によって、彼と奥さんは、子どもさんは、ご両親は、教会の人々は、繋がっている。

神の愛によって、永遠に繋がっているのです。

すべては神が備えてくださったもの。

最初のクリスマス・イブの夜に、神が備えてくださった、神の愛の証。

御子イエス・キリストは、この世に、生まれました。

この神の愛の奇跡に、気づいた人は幸いです。本当に幸いです。

 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

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執筆者について

執筆者:しゅういち

東京、山形などで牧師をし、現在は東京都小平市の花小金井キリスト教会で牧師をしています。牧師になるまえは、プロの吹奏楽団で仕事をしていました。

世界のベストセラーである「聖書」から、毎週日曜日、わかりやすくおはなししています。教会のホームページもどうぞご覧ください。

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