「日曜日の礼拝に集う子どもたちや、わかい世代が少なくなったね」といわれて久しくなりました。
この言い方が表しているように、昔から若い人々がいなかったわけではないのです。だんだん少なくなっていった、ということです。
ある意味、これは当然の社会現象です。
「昭和」まで存在していた、専業主婦、地域、親族の支え合いネットワークは、「平成」以後急速になくなっていき、
今や、子育ての現役世代は、共働きか、一人で仕事と子育てをしている家庭が大半です。
その疲れと子育てのストレスを和らげる、ご近所、親族の助けのない、いっぱいいっぱいの子育て世代が
日曜日の午前中の礼拝に、子どもと一緒に教会にやってくること自体、
物理的、肉体的、精神的に、非常に困難になったのです。
コミュニティーの助けを必要とする世代が、コミュニティーに入れない時代です。
さて、教会も社会的には、コミュニティーの一つです。
日曜日の礼拝に集い、
神の前に、互いに同じ人間として、立場や世代の違う人々が、出会い、
お互いに、限界をかかえたもの同士、互いのために祈り、支え合おうとする、コミュニティーの現場といえます。
ただ、日曜日の1時間の礼拝における、時間と空間を共有することの大切さと同時に、
そのこと自体が、物理的に、肉体的、精神的に困難になった、
この時代における教会のコミュニティーのありかたについて、考えないといけないと、以前から思っていて、
その道筋としては、時間と空間の限界性を超えさせる「祈り」による繋がりをベースにしつつ、
同じく、時間と空間の限界を超えて、音と映像を届ける道具として、オンラインによる、コミュニティーの具体的可能性、その難しさなどについて、
実践し、試行錯誤しつつ、考えつづけたいのです。
この視点を、コロナ危機前にもっていたことに、あらためて驚いています。