やさしいキリスト教入門

「なぜ泣いているのか」(2018年4月1日 イースター(復活祭)の聖書のお話)

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ヨハネによる福音書20章1節〜18節からのお話

「復活の主イエスと出会う」

この世界で、誰一人として、想定していなかった、この驚くべき出来事に、

最初に遭遇した人は、男の弟子たちではなく、イエス様を愛する一人の女性、マグダラのマリアであったのだと、

ヨハネの福音書は告げるのです。

彼女は、かつて神に愛されている自分自身を、見失い、罪に苦しむ人生から、

主イエスの言葉によって、救われ、神に愛されている、本当の自分自身を取り戻していった女性。

彼女が、この「復活」という、神によって引き起こされた、その「事件」の、第一発見者であったと、ヨハネの福音書は証言しています。

おそらく、後の時代に、この「ヨハネの福音書」を書き残した教会に、マグダラのマリアの証言が残っていたのでしょう。

「わたしはあの日。今、教会がその日に礼拝するようになった、週の始めの日。

朝早く、まだ暗いうちに、死んで葬られたイエスさまのお体にお会いしたくて、

ただその一心で、お墓へと向かったのです。」と、マリアは証言したことでしょう。

しかし、墓にいった彼女は、自分が観たかったものを、見ることができなかったのでした。

つまり、主イエスの遺体は見当たらず、

なにものかが、墓を塞いでいた石を取りのけて、墓はもぬけの殻だったのです。

当然、マグダラのマリアは驚いた。あるはずのものが、見たかったものが、そこになかったのですから。

とっさに彼女は、こう思いました。

「だれかがイエスさまの体を、運び去ったのだ」と

当然です。墓石が取りのけられ、中身が空になっていたのをみれば、だれでも、何者かが遺体を運び出した、盗んだのだと、考えるでしょう。

マリアは慌てて、エルサレムの近くに潜んでいた、ペトロや弟子たちの隠れ家に、急いで走り告げました。

「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と

マリアの動揺が伝わってきます。

愛するあの方の、そのお体は、今、いったいどこにあるのか。どうなっているのか。なぜ、こんなひどいことを・・・

そういう様々な思いが、きっと彼女の頭の中を駆け巡り、いっぱいであったことでしょう。

マリアの知らせを聞いた、のペトロと、もう一人の弟子・・・おそらくヨハネが、急いで墓へと走ったのです。

このときの、ペトロとヨハネは、どんな気持ちだったのでしょう。

そもそも、彼らは、なぜ、いまさら、墓へと走ったのでしょう。

弟子たちはみんな、イエスさまを見捨てて逃げ去っていたというのに。

その間に、イエスさまは十字架につけられ、殺されたというのに。

そのイエスさまの墓に、逃げかくれていた、ペトロとヨハネは、

いったいどんな思いで、走ったのでしょう。

去年の3月。わたしの父は、突然、心筋梗塞で、この世を去りました。

近くで、一人暮らしをしていた父との、突然の別れでした。

その日、突然わたしの携帯電話に連絡が入ったのです。

父が倒れているのを、近所の人が見つけ、処置をしたが亡くなったと。病院に安置されたので、いたいを確認してほしい。

この知らせを聞いたわたしは、このペトロとヨハネのように、まさに走る気持ちで、病院へと向かいました。

そのとき、心の中に様々な思い、考えが浮かんでは消えたのです。

最近、連絡をしていなかったことを、悔やみ、責める思いが、沸き上がってきたことを、思い出すのです。

マリアからの突然の知らせを受けて、イエスさまの墓へと走った、ペトロとヨハネは、

どんな気持ちで、自分たちが、見捨てて逃げたイエスさまの、遺体のもとへ、向かったのでしょう。

もし、そこにイエス様の遺体があったら、彼等はそのイエス様の遺体を、直視できたのでしょうか。

しかし、ペトロとヨハネも、イエスさまの「遺体」と対面できなかったのです。

そこにあったのは、遺体を包んでいた亜麻布と、頭を覆っていた覆いだけでした。

その状態をみて、二人は「信じた」と書いてあります。彼らが何を信じたのか。「復活」を信じたということなのか、よくわかりません。

むしろ9節に書いてあるように、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」のでしょう。

ですから、このあとこの二人は、また隠れ家へと帰ってしまうのです。さらに故郷であるガリラヤへと、戻っていくのです。

まだ、彼らの人生は新しくなっていないのです。まだ彼らの心は、罪の痛みにとらわれたままです。復活のイエスとの出会いは、まだ先になります。

それは、また来週以降、礼拝のなかで聖書を読んでいくことになります。

今日は、マグダラのマリアと、「復活の主イエス」との出会いが、テーマです。

イエスさまの遺体が、どこかに運ばれてしまった。盗まれてしまったと、泣いていたマリア。

しかし、それはマリアの思い込みであったのです。

なぜなら、遺体をぐるぐる巻きにしていた、亜麻布と、頭を覆っていた布が、丁寧にたたまれて、そこに置いてあったからです。

誰かが遺体を運んだのなら、わざわざ遺体から亜麻布をとり、畳んでおいたりしないでしょう。

でも、マリアは、亜麻布を見ても、そのことには気がつきません。

彼女は、強く「誰かが運び出したにちがいない」と思い込んでいるからです。

その犯人をつかまえて、遺体を取り戻したい。

マリアの心は、この思い込みにつよく縛られていたのです。その思い込みのゆえに、彼女は、墓の前で泣きつづけていたのです。

泣いていたマリアは、また、墓のなかをのぞいてみました。すると、そこに二人の天使が見えたのだと、と書いてあります。

マリアは後に、そう証言したのでしょう。しかし、その時は、それが天使だったのかなんだか、よくわからなかったのだと、証言したのでしょう。

マリアは天使をみても、驚くことも、恐れることもない。まったく状況がよく分かっていない、混乱した様子が、そこに描かれています。

マリアは、天使に向かってさえ、弟子たちに語ったのと、まったくおなじことをいったのです。

「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と。

何度も、なんども、まるで、うわごとのように、訴え続けるマリア。

彼女の心の中には、もう「何者かが、イエスさまの遺体を運び去った」というストーリーが、

強い確信となって、できあがっていたのです。

ふと、マリアは後ろを振り向くと、そこに、復活の主イエスが立っておられたというのです。

マリアは後から、そう証言したのでしょう。わたしはイエス様がそこに立っていたのに、わからなかったのだと。

あれほど、会いたいと思ってたイエス様が、そこに立っておられるのに、

彼女は、それがイエスさまであることが、わからなかった。気づかなかった。

なぜでしょうか。

それは、マリアが、一生懸命捜していたのは、イエス様の遺体であったからです。

マリアは、一生懸命、彼女の願いを、はたそうと、イエス様の遺体を探していたからです。

あれほど会いたいと、捜し回っているお方が、目の前に立っているというのに、

彼女はそれが分からないまま、泣いているのです。

おもえば、マリアは、ずっと泣いていました。

イエスさまが十字架につけられた時も、自分にはなにもしてあげられないと、泣いていたであろうマリア。

イエスさまが死に、葬られた時にも、なにもしてあげられず、遠くで泣いていたであろう、マリア。

そして、安息日があけて、やっと、イエス様のご遺体に、自分が香油をぬって差し上げられるのだと、

自分の願いをはたしたいと、やってきたのに、

その願いさえ叶わないまま、イエスさまの遺体は、どこかに消えてしまったのですから。

マリアは、ただただ、遺体を探すことだけ。自分の思いを遂げることだけに、心がとらわれていたのです。

しかし、マリアが、自分の思いが遂げられなかったという、その悲しみの涙を流しているうちは、

心が縛られているうちは、

その涙に目がかすんで、復活のイエスさまが見えないのです。

見えているのに、そこに確かにおられるのに、

見えていない、分かっていない、ということがあるのだと、ヨハネの福音書は私たちに教えてくれます。

自分の思い込みに、考えに、心が縛り付けられてしまうとき、

わたしたちは、その自分の思い込み、考えに心の目が塞がれて、

見えるべきものも見えなくなってしまう、ということがあるのでしょう。

それゆえに、イエスさまはマリアに問われたのです。

「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と。

しかし、マリアはイエスさまのことを、園丁だと思い込み、泣きながら訴えます。

「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と

マリアは、目の前のイエスさまに向かってさえ、うわごとのように、同じ事を言い続けます。
彼女の思いを、願いを、訴え続けるのです。

しかし、まさにその時、マリアの耳に、あの懐かしい声が、

なんども呼んでくださった、あの声が響いた。

「マリア」

彼女にはもうその一言で十分でした。

「マリア」と呼ばれたその一言で、彼女はすべてを悟り、

「ラボニ」「先生」と、答えました。

復活のイエスとの出会いとは、超常現象でも、異常な体験でもなく、

実に、人格と人格が、心と心が、繋がりあう体験そのもの。

主イエスの言葉、その呼びかけを聞き、「主よ」と呼ぶ、

心と心の出会いそのもの。

自分の思い込み、考えに、こころ縛られ、失望し、うつむくしかなかった、マリアに、

そして、私たち一人一人に、

その失望に終わるしかなかった、思い込みや、自分の考えに、縛られてしまったこころを、解き放って、自由にし、

思いもしなかった出会い、考えもしなかった出来事、

神の国にいきる、その喜びへと、

わたしたち一人一人の名を呼んで、招き入れてくださる出来事。

それが復活のイエスとの出会いなのです。

「復活」は、人間が、「空の墓」をどんなに見つめても、

どんなに研究しても、

どんなに考えつづけても、

分からない、神の神秘。

神様の側から、人間と出会ってくださる出来事。事件です。

だから、主イエスはマリアに言われました。

「わたしにすがりついてはならない」と。

人間は、復活の主イエスを、自分の手の中につかまえて、握りしめて、

もうはなさないと、すがりつくことは出来ないのです。

主イエスを、自分のものにすることは、できないのです。

そうではなく、わたしたちが、主イエスに愛されている者とされる。

主イエスに名を呼ばれ、主イエスに応えて生きる。

主イエスに愛されているものとなる。

先ほど、一人の方が主イエスに名を呼ばれ、主イエスに応えて生きる人となり、バプテスマを受けたように。

それが、復活の主イエスと出会いという、神秘なのです。

復活の主イエスと出会ったマリアは、

もはや、なきながら、主イエスの遺体を捜す必要など、ないのです。

自分がぎゅっと握りしめていた思い込みから、解き放たれ、

それがなければ、自分はだめなのだ、生きられないのだと、

自分で自分の心を、縛り付けていた、

その古い考え、思い込みから、自由にされて、

どんなときも、イエスさまの声に導かれて生きていく、

新しい人へと、今日、あらたに生まれたのです。

-やさしいキリスト教入門

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執筆者について

執筆者:しゅういち

東京、山形などで牧師をし、現在は東京都小平市の花小金井キリスト教会で牧師をしています。牧師になるまえは、プロの吹奏楽団で仕事をしていました。

世界のベストセラーである「聖書」から、毎週日曜日、わかりやすくおはなししています。教会のホームページもどうぞご覧ください。

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