生きる喜びはどこにあるのでしょう?
まちがいなく、人間だけが「生きる喜び」とか「生きる幸い」ということを、考え、求める生き物です。
動物は「生きる喜び」ということを求めたりはしません。とにかく生きるために、食べ物を求めて生きているだけで、あえていうなら、食べることが「生きる喜び」ということになるでしょう。
しかし人間は、食べものがあっても、「生きる喜び」がないと、食欲がなくなったり、元気がなくなってしまうのです。
ある人は、そんな「生きる喜び」などと考えるから、元気がなくなるのだ。ただ美味しいものを食べ、楽しいことさえして、生きていけばそれでいいではないか、というかもしれませんね。
もちろん、それができる環境にあること自体、幸いなことです。
世の中には、美味しいものを食べることも、楽しいことをすることもできない、貧しい状況の人も沢山おられますから。
でも、もしお金があり、食べるものや好きなこと、楽しいことができる環境さえあれば、「生きる喜び」なんて考えなくても生きていけるのでしょうか?
むしろ、そういう何不自由ない環境にある人こそ、自分はいったい何のためにいきているのだろうとか、生きることが退屈になったり、虚しくなってしまうことは、ないのでしょうか。
聖書のなかに、数千年前のユダヤの王で、栄華を極めた人が書いたと言われる、このような言葉があります。
「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉
コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦もなんになろう
一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地
日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る
風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける
・・・・(中略)
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何一つない。
・・・・(中略)
わたしはこうつぶやいた。
「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう」
見よ、それすらも空しかった。・・・」(旧約聖書 コヘレトの言葉から)
まだまだこの先に「空しさ」が語り続けられます。
この生きることそのものに対する「空しさ」を嘆くこの言葉に、
だれしもが心のどこかで「共感」を覚えるのではないでしょうか。
ただ、そのことを深く考えたり、向き合うことは辛いので、いろいろな刺激を求めては、お金を使ってみるけれども、心の底のこの「空しさ」は、消えないのです。
この「生きる喜び」がない状態。「生きる空しさ」を感じている状態は、確かに辛いのですが、一方で、この「心の空しさ」を感じることができるのは、人間だけなのですから、ある意味最も人間らしいことということができます。
この食べ物によっても、快楽によっても、地位や名誉や、お金によっても取り去られない「心の空しさ」を知るとき、人はほんとうの意味で、自分自身と向き合い、自分自身と出会っているとさえ言えるでしょう。
本当の自分は、こんなに寂しかったんだと、自分の心の空しさ、寂しさに、気づくことができたのです。
その本当の自分の心と向き合い、自分の心が欲している本当に価値あるものを、探し始めたのです。
その本当に価値あるもの、宝は、きっとあなたの直ぐそばに、すでにあるはずです。
このブログの中から、その宝を見つけるための言葉が、
見つかりますように。
牧師です。お話聴きます 牧師です。傾聴ボランティア、カウンセリングの経験もあります。