前回の「超、簡潔な仏教解説」に引き続いて、
「超、簡潔なキリスト教解説」に挑んでみます。
仏教についても言えることですけれども、キリスト教についても、短い言葉で簡潔に説明するのは、実に難しいことだと痛感します。
本当に本質を捉えていないと、短い言葉では伝えられないものですね。
では、どうぞ。
<キリスト教はどのような宗教か>
1.キリスト教は救済宗教
仏教が「悟り」の宗教であるのに対し、キリスト教は「救い」の宗教といえます。約2000年前のユダヤに生まれ、十字架につけられ死んだイエスは、三日目に復活し、人間を罪から救う神の子「キリスト(メシア)」となったと信じる宗教です。
聖書がいう「罪」とは、この世界を創造した創造主への反抗状態のことです。なので「罪」からの「救い」には、「罪」の結果として受けなければならなくなった神の裁きが「ゆるされる」ことも含まれます。
人の罪のゆるしのために、神の子イエス・キリストは「罪の贖い(あがない)」として十字架の上で神の裁きを受け死なれます。そして、三日目に復活して弟子たちに表れ、この「福音」を語り広げるようにと派遣します。弟子たちの宣教を通して「福音」を信じる人々の群れである「教会」が生まれ、世界に広がり続けて、今に至っています。
2.キリスト教は唯一神教
唯一神教には、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教があります。共通していることは、「神」とはこの世界を無から創造した、永遠の存在としていることです。「神」が「唯一」であるとは、「神」は作られたものではなく、作ったお方であることを意味するので、「山の神」とか「海の神」、また人が作った「物」や「像」を「神」として祀ったり、人間そのものを神とすることを、偶像礼拝という罪と理解します。
3.キリスト教の神は三位一体
ユダヤ教もイスラム教も、創造主のみを神としますが、キリスト教は神について、唯一の神でありながら同時に、「創造主(父なる神)」「キリスト(子なる神)」「聖霊」という3つのあり方で存在していると信じています。これを三位一体といいます。
実際イエス・キリストは人として生き、人として十字架につけられ死にました。しかし同時に、その死は神の子の死であり、ゆえにすべての人を罪から救う尊い犠牲と理解されています。
「聖霊」とは、この「人であり神であるキリスト」という論理をこえた、キリスト理解、三位一体の神理解を、理屈ではなく、心においてわからせてくださる神の霊として、時代も文化も超えて働いていると信じられています。
4.キリスト教は愛の宗教
新約聖書のヨハネの福音書の3章16節にこう記されています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」
キリスト教はユダヤ教を土台として生まれました。天地を作られた神は、神から離れて罪に落ちたこの世界を救うために、一人の人アブラハムを選びます。彼の子孫がやがてイスラエルの民となり、ユダヤ人と呼ばれるようになります。
神はイスラエルの民を愛され、イスラエルの民も神を愛することで、神の素晴らしさがこの世界に証しされるはずでしたが、イスラエルの民は神から離れて、偶像の神に心惹かれ、道を外れてしまいます。
神が遣わした預言者が、イスラエルの民に神の言葉を伝え、道を正そうとしますが、イスラエルの民は預言者の言葉を受け入れずに、殺してしまうこともありました。しかし神はなお、最終手段として、ご自分の大切な独り子イエスキリストを、この世にお与えになりました。そのイエス・キリストを人は十字架につけてしまいますが、神はそのイエスを復活させて、なお人の罪をゆるされたのです。
これほどまでの、神の愛とゆるしを信じるものは、一人も滅びることなく、永遠の命を得るというのが、冒頭に記されたヨハネの福音書が告げているメッセージです。
5.「救い」は行いによらず神の恵みを信じる「信仰」によってのみ
キリスト教は、神が与えようとしている救いを、ただ受け取る宗教です。
人間が神に近づくために、善行や修行を行うのではなく、神のほうから人間に近づいてくださり、罪から救うために、イエス・キリストを与えてくださったという、神の愛と恵みを、ただ感謝して受け入れることがキリスト教信仰の中心です。
自力救済ではなく他力救済です。
そして、神の愛と恵みを信じることで、その人の内に聖霊が与えられ、善い行い、愛の行いをしていく内なる力が与えられていくというのが、キリスト教の信仰のダイナミックなところです。
要するに、神に救われるために、人間が善い行いを行うのではなく、
神がすでに救ってくださり、善い行いを行う力を与えてくださったので、そのように生きていくのが、キリスト教を信じる人々の生き方となります。