日本人は、普段生活の中で宗教を意識して生活している人は少ないと思います。しかし亡くなった時には、77.5%の人が仏教式で葬儀をし、無宗教は17.8%、神道は2.4%、キリスト教は0.9%(2014年ENDING Data Bank)の割合で葬儀を行っているそうです。
この割合だけを見れば、日本は圧倒的に仏教信徒の国となりますが、実際は仏教のみならず、宗教全般について、普段の生活の中で、考えたり、実践している人は、さほど多くないと思います。
むしろ一般書店に並んでいる宗教関係の本を見ると、占いやオカルト、新興宗教や「スピリチャル」と呼ばれる疑似宗教のほうが、伝統的な宗教より、日本人の普段の生活のなかに入り込んでいるように見えます。
しかしそれらの新興宗教や「スピリチャル」の多くの教祖たちは、自分の教え権威づけるために、伝統的な宗教の教えや言葉を利用しているのです。たとえば「ブッダもこう語った」「イエス・キリストもこう語った」と引用しながら、自分の教えは間違っていないように利用します。
ですから、まずは伝統的な宗教が何を語ってきたのか、その基本を知っておくことは、様々な教えに惑わされないためにも必要なことだと思います。
でも、現代人は忙しすぎて、ゆっくりと宗教について考えたり、学ぶ時間はなかなか取れないものですね。
ですからできるだけ短く、わかりやすく、本質だけに絞って、仏教やキリスト教について解説していければと思っています。
ただわたしはキリスト教の牧師なので、専門はキリスト教です。資料にあたりつつも、仏教の専門家ではありませんから、仏教の解説については理解の浅さ、間違いもあるかもしれません。コメントにおいてご指摘くだされば幸いです。宗教者として学んできた常識レベルの知識を、さらにエッセンスだけに絞って、短くお伝えします。
これをきっかけにして、これから迎える激動の時代を生き抜くためにも、さらに宗教についての学びを深めていただければと願っています。
<そもそも仏教とはどのような宗教か>
1.仏教の開祖、釈迦とは悟った人のこと
まず、仏教は釈迦(シャカ 仏教の開祖 ゴーダマ・シッダールタ)という仏が教え始めた宗教、と勘違いされていますが、そうではありません。仏教においては、絶対的なものは「法(ダルマ)」といういわゆる道徳法則のようなものだけであり、これを悟った者を「仏」と呼んでいます。
釈迦は仏陀(ブッダ)とも言われますが、これは悟りを開いたものという意味です。釈迦は「法」を悟って仏陀となりました。ちなみに紀元前5世紀ころのインドにおいてのことと言われています。
シッダールタは王族として生まれますが、安逸な生活に飽き足らず、また人生の無常や苦を痛感し、人生の真実を追求しようと志して29歳で出家します。その後6年の間に様々な苦行を行います。釈迦が生きた時代にインドにあったバラモン教の苦行信仰の影響からも、様々な修行や瞑想行為をし、シッダールタの身体は骨と皮のみとなり、やせ細った肉体となりました。しかしスジャータの施しを得て、過度の快楽が不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟ったシッダールタは苦行をやめます。
35歳のシッダールタは、ナイランジャナー川で沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜の布施を受け、体力を回復してピッパラ樹の下に坐して瞑想に入り、悟りに達して仏陀となりました。この後、7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かず、悟りの楽しみを味わい、さらに縁起と十二因縁を悟ったと言われます。
2.仏教は本来無神論
そもそも釈迦は悟った人であって、人間を超えた神ではありません。よく「神も仏もあるものか」という言い方がありますが、キリスト教のいう「神」と仏教の「仏」はまったく違う概念です。ところが仏教も後世になると「大日如来」や「阿弥陀仏」といった、永遠に存在する仏という思想が出てきます。しかし釈迦はそのような人間を超えた超越者については全く語っていません。
むしろ釈迦の思想は無神論的であったと言われます。
釈迦の思想の主な4つは、
「苦」(人生は苦である)
「無常」(すべてのものは移り変わる)
「無我」(世界のすべての存在や現象には、とらえられるべき実態はない。魂の否定)
「涅槃」(すべての執着心を断てば、苦悩に満ちた輪廻の世界の生まれ変わりから解放され、生存から脱することができる)
と言われます。釈迦は永遠に実在する世界があるとは語っていないのです。
仏教の目的は、悟りです。すなわちもろもろの煩悩をなくして、解脱して涅槃に入ることです。その煩悩が生じるのは、「わたしが存在する」という自覚があるからであり、この迷いを捨てさることで涅槃にはいるので、「魂はない」ということになります。ですから仏教には「魂の救い」という考え方も本来ありません。
3.輪廻転生と仏教
人間には、肉体のほかに魂があり、肉体は死んでも魂は残る、魂は永遠であるという考え方は古くからあります。インドの哲学者は、肉体の根底にアートマン(本来の自我)という実在を想定しました。肉体は死んでも、アートマンは生まれ変わり、死に変わって実在し続けるという思想です。
このバラモン教、ひいてはヒンドゥー教の「輪廻転生」の思想を、仏教は受け継ぎました。
仏教では、まだ悟りに達していない生き物は、死に変わり生まれ変わって、六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)に転生し、生きている間の業(行い)が良ければ、より上の道(どう)に生まれかわるとします。
この「輪廻転生」の考え方をバラモン教から受け継いだ仏教は、同時にこの世に存在するものに実体はなく、すべて因縁によって存在するという「空」の思想により、アートマンのような魂の存在は否定しています。
4.空とは
「空」とはもともと、実体がないという意味です。なにもない「無」とは違います。「無」は「有」に対する対立概念ですが、「空」はその両者を超えた概念です。「無」でもなく「有」でもなく、「無」でもあり「有」でもあり、そして「無」と「有」以外のものという、論理ではとらえられない概念が「空」です。
この難解な「空」について慈円(じえん)という歌人の歌があります。
「ひきよせて むすべば柴の 庵にて とくればもとの 野はらなりけり」
「庵(いおり)」とは草木を結ぶなどして作った質素な小屋のことです。庵は「建築する」とは言わず「結ぶ」と言いました。
そこらへんにある柴をかきよせて結んで作ったから庵(いおり)になる。もし結び目を解いてしまえば、そこにはなにもなくなります。
それでは、「庵」はあるのでしょうか、ないのでしょうか。
柴を結べは「庵」は存在します。しかし、結び目を解けば「庵」は存在しなくなります。
したがって、「庵」は、あるともいえるし、ないともいえます。
それと同時に、あるとも言えないし、ないとも言えません。
「庵」の存在、有無は、「結び」にかかっているのです。
結べは庵はあるが、結ぶまではなかった。
結びを解けば、あったはずの庵はなくなる。
これが「空」
「空」は確かに「無」であるが、同時に「有」。
すべての実在は「空」であって、「庵」などという実在は、もともとなかった。
ところが「空」は、実在を生み出すのです。結びさえすれば庵ができるように。
この「空」について、有名な般若心経(はんにゃしんぎょう)という仏典が、「色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそくぜしき)」と説いています。「色(物質的現象)」は「空」であり、すべての「色」は「空」から生ずるという意味です。
柴を結ぶことにより、庵は存在する→「空即是色」
結びを解けば、庵はなくなる→「色即是空」
です。
5.縁起とは
先の「庵」の例えにおける「結ぶ」ということが、仏教でいう「縁起(えんぎ)」です。縁起はまた、因縁とも言われます。
縁起も因縁も、「縁起が悪い」「因縁の対決」など、すでに一般の日本語として使われている言葉ですが、仏教の本来の意味とはだいぶ違います。
仏教用語の「縁起」は、「因果(いんが)」のことです。原因があって結果があるというです。「庵」という結果は、「庵」を結ぼうとする意思が「因(原因)」です。「縁」とは、柴や縄になります。「因縁」によって「庵」は存在します。
仏教は、良いことをすればよい報いを受け、悪いことをすれば悪い報いを受けるという、因果律で徹底しています。ですから、仏教に偶然はありません。
6.「上座部仏教」と「大乗仏教」
仏教は、簡単に二つに分類されることがあります。「上座部仏教」と「大乗仏教」です。
「上座部仏教」は大乗仏教成立以前の仏教諸派の総称です。現在でもセイロン、タイ、ミャンマー、インドシナにみられる仏教です。
一方「大乗仏教」は、旧来の上座部仏教が個人的解脱を目指していることに対して、広く人間の全般的救済と成仏の教えを説き、1~2世紀に成立しました。中国、日本に伝わった仏教は、大乗仏教です。
この「大乗仏教」は、釈迦の教えではないのではないか、という議論はよく聞こえてきます。釈迦の思想には、神や、あるいは神的存在に対する思想はなかったのに対し、大乗仏教になると「大日如来(大ビルシャナ仏)とか「阿弥陀仏」などの神的存在者が登場してくるからです。
「大日如来」とは「光明あまねく一切を照らす」という意味で、宇宙の実相を霊化した存在者です。また「阿弥陀仏」とは、極楽浄土に住むとされる神的存在者で、この仏を信じ「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えれば、どんな人でも極楽に往生できる、と説かれています。
また大乗仏教には「浄土(じょうど)」「仏国土(ぶっこくど)」という思想があります。キリスト教の「天国」に近い考えであり、釈迦にはなかったものです。
また「大乗仏教」の一派である浄土宗などになると、原始仏教にはなかった「罪」の概念が現れ始めます。さらに末法思想と呼ばれる歴史の終末論や「弥勒(ミロク)」と呼ばれる未来の救い主に対する信仰が現れます。
釈迦の死後、長くたった世は末法の世で、釈迦の教えが実行されず、世が乱れるが、将来「弥勒」と呼ばれる仏が現れ、釈迦の教えに漏れた人々を救う、という信仰です。
このような原始仏教にはなかった、「浄土」「罪」「末法」「弥勒」という思想と、キリスト教の「天国」「罪」「終末」「救い主」という思想が不思議に一致するのは、大変興味深いことだと思います。
→つづき「超、簡潔なキリスト教解説」
※参考文献
「どこがどう違う キリスト教と仏教」(渡辺暢雄)
「日本人のための宗教言論」(小室直樹)
「仏教の仏とキリスト教の神」(久保有政)