わたしは牧師としてたくさんの方々と出会ってきましたが、
幼少期に、親から「あなたはだめだ」という人格否定の言葉をかけられすぎた人の中には、
おとなになってからも、自己否定の感情に心縛られてしまい、
いわゆるパーソナリティ障害を負ってしまう傾向があるのではないかと、小さな経験から感じています。
ウィキペディアから「パーソナリティ障害」
パーソナリティは、見方や反応の仕方、考え方、人とのかかわり方、振る舞いの仕方といったことの持続的なパターンであり、その人らしさを形成している。それが、適応的にできなくなり、臨床的に著しい苦痛や機能の障害をもたらしている場合にパーソナリティ障害である。
世界保健機関は以下のように定義する。パーソナリティとは、個人の生活様式と、他者との関係の仕方における様々な状態と行動のパターンである。パーソナリティ障害は、根深い持続する行動のパターンであり、文化による平均的な人間のものから偏っている。
わたしは精神科医ではないので、診断などはできませんし的外れなことを言っているのかもしれません。
ただ、「自分の見方、思い込みが非常に強く、対話によってはかわらない」方々との、数々のコミュニケーションの体験を通して、個人的にこのパーソナリティー障害ということについて、考えさせられてきたのです。
人間はだれもが自分の視点からしかものが見えませんから、同じ事実をみていても、違った視点からみれば、まったく違った事実が見えてくるものです。
この、ある意味当然のことが、どうしても受け入れられない方が、一定数おられます。
それは違う言い方をすれば、「自分の思い込みが強く」他者の視点を受け入れられない方です。
結果的に、自分の考えだけが正しく、他の見方は過ちであると断定し、対話が成り立たなくなってしまうのです。
そうなると、コミュニケーションが難しくなり、人間関係が破綻します。
一方で、「自分の思い込み」に賛同してくれる人は、自分の理解者、自分の味方として仲良くできるので、すべての人間関係が破綻してしまうまでは行かない方も、多いと思います。
ただ、自分の考え方に賛同する人とだけ関わることで、結果的に考えが偏っていくことを、修正できないまま、
自分の考えに賛同する味方と、そうではない敵を作り、味方には優しく、敵とみなした人に対しては、辛辣な攻撃をしていく傾向があります。
もちろん、だれでも「思い込み」はあり、「自分の見方」からものを見ています。
そうであるからこそ、自分の見方は限定的であること。
間違っている可能性があること。
そういうことが他者との対話によって、自分とは違った視点からの見え方に出会うことで気づいていく経験を、だれもがしていくものです。
そのような出会いと対話によって、自分の考えが変えられ成長していくことが、人格的な成長にとって、不可欠なことなのです。
その意味において、パーソナリティー障害とは、自分が変えられ、成長していくことを恐れ、偏った考えのなかにとどまってしまう障害なのかもしれません。
そしてこれはわたしの仮説ですが、
人は小さい頃から「あなたはだめだ」と、自己否定され続けるなら、
やがて、過剰なまでに自分防衛をするようになり、結果的に、自分の考え方に異常なまでに固執し、偏っていくのではないか、ということです。
「間違っていたって大丈夫」「正しくなくても大丈夫」
「あなたの存在は、神様に与えられた、ほかに比べようのない、尊い存在なのだから」
この存在そのものの肯定するメッセージを聞いて、受け入れて
自分で自分を守ろうとする、過剰なまでの自己防衛から解放されるなら、
希望の光がみえてくるように思うのです。