「注文をまちがえる料理店」で注文を取るスタッフは、認知症の状態にある方々。
「このお店では、注文した料理がきちんと届くかは誰にも分かりません」というルールを受け入れたお客さんたちと共に「間違えることを受け止めて、むしろ楽しもう」という思いで一時的に開かれた料理店です。
実際に、営業中に間違いは数多く起きたようです。しかし興味深かったのは、誰一人怒ったり、いら立ったりしなかったことでした。
注文と違う品が出て来ても「まあいいか、たいした問題じゃない」と受け止めたり、お客さん同士で間違った注文を取り替えあったり、そんな温かなフォローや笑顔がそこには溢れていました。
きっと「天の国」とは、このような温かな関係をいうのでしょう。一方、もしこの地上の普通のレストランで、私たちは注文を間違えられたなら「まあいいか」とはなりませんね。
怒り、イライラし、相手のミスを糾弾するでしょう。だれも自分が損をして嬉しくなどないからです。
さて聖書の中で、イエスキリストは、ある時弟子のペトロから「何度赦せばいいか」と聞かれました。
そこで「天の国」の譬えキリストは返答されたのです。
それは、主君が家来の抱えた膨大な借金を放免する話、つまり、家来を憐れみ、主君自らが膨大な損を引き受ける話です。
ここから「ゆるし」とは実は「自ら損を引き受ける」事だと気づかされます。
しかしこの譬え話は、このゆるされた家来は、自分自身は、損を引き受けようとはしなかったという悲しい結末で終わるのです。
「注文を間違える料理店」のような試みを通して気が付かされ、伝わってくるのは、
人が、小さな損を、自分から引き受けるときだけ実現する、不思議な「平和」の世界があるのだ、ということなのですね。