だれかの役にたつかもしれないなとおもったので、わたしの娘に、わたしが彼女と同じ年頃のころのことを、伝えるために書いたものを、少し手直しして、以下に転載します。
「パパの両親は、その当時、だんだん落ち目になっていったアパレルの下請けで、家で夜遅くまでミシンで洋服を縫っているような自営業をしていました。
なのでパパは中学の時点で、「自分は大学にはいけないな」と判断して手に職をつけようと、川越工業高校の電気科に進んだのです。
ところが、高校で出会った吹奏楽の指導者が自衛隊の音楽隊出身で、「音楽隊という道もあるのか」と思い、あこがれます。
そして、本当はとっても怖かったのだけれども、高校卒業と同時に自衛隊に入隊することになります。
予想はしていましたが、案の定、今まで体験したことのない、体育会系の世界。命令され、怒鳴られ、走らされ、戦争ごっこのような嫌な訓練を受け続け、「このまま音楽隊にも入れてもらえないんじゃないか」と、半ばあきらめかけていた1年後。やっと音楽隊に配属されることになったのです。
その時は、もう諦めかけていただけに、本当に嬉しかったし、これから好きな楽器を吹くことができることに、夢を膨らませていました。
さて、パパは実は高校時代はホルンを吹いていました。自分のホルンがほしくて、親からお金を前借りしてヤマハのホルンを買い、3年間新聞配達のアルバイトをして返していたのです。そのホルンを、大事に自体隊にも持って行っていました。
さて音楽隊に配属されてすぐにアクシデントがありました。人事の手違いで、同じホルン吹きの新しい隊員も配属されてきたのです。パートの定員が決まっているので、「申し訳ないが、オーディションをして、どちらかには、楽器を変わってもらう」と言われ、彼とわたしは、みんなの前でオーデイションをすることになったのです
彼は全国大会にもいくような、吹奏楽で有名な高校出身でしたが、彼の音を聞いた瞬間、正直わたしのほうが音も技術も上だと感じていました。そして楽器のオーディションをそれぞれに受け、結果を待つことになりました。
音楽隊のホルンのパートリーダーがわたしの所にやってきて、こう言いました。「君のほうが彼より音もいいしセンスもいいし上手だと思う。」わたしは、その言葉を聞いた瞬間、自分が選ばれたと思いました。先輩は続けてこう言いました。「一方、彼はすこし不器用で、ほかの楽器に変わったら、もうだめだと思うんだ。君は上手だし、センスがあるから、ほかの楽器に変わってもすぐにうまくなれると思う。だから、変わってくれないか」。
わたしは、ショックを隠しつつ「はい」と一言答えました。そして、その日一晩だけ泣きました。そして次の日、自分のホルンをしまい、新しく担当することになる、トロンボーンを借りて、マウスピースを口に当てて練習を始めました。最初は何の音も出ませんでした。涙だけが出ました。でも、心に誓いました。この音楽隊でトップのトロンボーン奏者になると。
数年後、わたしは練馬の第一音楽隊のリードトロンボーン奏者となり、音楽隊をバックにソロ演奏ができるくらいになりました。吹奏楽の作曲家で有名な、故アルフレッドリードが来日したときには、池袋の芸術劇場大ホールでのコンサートで、彼が作曲したトロンボーンのソロ曲を、彼の指揮で演奏させてもらったのは、いい思い出です。やがてもう一つ上の部隊の東部方面音楽隊のトロンボーン奏者として転属することになります。
一方、オーディションでわたしに勝ち、ホルンを吹くことになった彼は、その数年後に、自衛隊そのものを辞めて、会社員になっていきました。人生いろいろです。
さて、一見、10代の挫折から、順調な20代を歩み出したようにみえるわたしのまえには、その後も、いろいろと試練と挫折がやってくることになります。その話はまたいつか・・・。」