稲盛和夫さんの講演を聴いて
10年くらい前、稲盛和夫氏(京セラ(株)名誉会長)の講演会を聴きに行ったことがあります。
テーマは「人はなんのために生きるのか」という興味深いものでした。会場は満席。経営者が多かったようです。
稲盛氏の結論は、 「人生の目的は魂を磨くこと」 ということでした。
死ねば肉体はこの世に置く。しかし魂は永遠。だからこの世で魂を磨いて、やがて旅立っていくことが人生の目的なのだと・・・
また、「因果応報の法則」とか、魂を磨くためにと、釈迦の教え「六波羅蜜」などを紹介なさり、ちょっとした仏教入門のような内容でした。
でも時折「神様が与えてくださった試練を感謝しています」ということをいわれたり、宇宙を良い方向に導いている「力」とか「この宇宙は愛に包まれている」とか、仏教というよりも、創造主の存在を思わせるような発言もありました。
稲盛氏も心の奥では、創造主なる神を求めておられるのかもしれないなと、感じた次第です。
でも、稲盛さんが語られた、この人生は、魂を磨くためにある、という考えは、本当に生きる目的になるのでしょうか?
私たちが何かを磨くというとき、必ずその磨いたものを見てもらう存在がいますよね。
職人が「業を磨く」のは、その業を評価する人がいるから磨くわけです。
「美を極める」のも美を評価する人がいるからです。
さて「魂を磨く」というとき、その魂は、いったい誰に対して、磨くのでしょう。
そういう人格的な存在がないのに、ただ自分の魂を磨いていても、自己満足ではないのかな。
それが人生の目的になるのかな、っと思ったのです。
無神論者のバートランド・ラッセルさえ、こういうことを言いました。
「神がおられると仮定しない限り、人生の目的を問うことには何の意味も無い」
では、人格的な神を信じる人にとって、人生の目的はどのようなものになるでしょう。
創造主なる神がおられるなら、神に造られた人間は、神に対して責任ある存在となります。
責任とは英語でレスポンスビリティ。「応答できる」存在ということです。
造ってくださった創造主の愛に、「応えて」生きられる存在が、人間。
ところが人は、神さまを無視して、無責任、無応答に生きているでしょう。
神を無視して、一生懸命自分の魂を磨いているわけです。
聖書はそういう的外れな生き方を、「罪」というわけですね。
人間の社会でも、無責任なことをすると、警察につかまったり、裁判にかけられるでしょう。
ましてや神様にたいして、それはまずいわけですね。
ところが、イエスキリストが、わたしたちの罪の裁きを、代わりに受け、十字架に死んだイエスを、神が復活させ
信じる人々のなかで、聖霊として共に生きて、助けてくださるようになったのです。
人が神に対して責任ある人間として、生きられるようにと・・・
これが福音なんですね。
なので、キリストを信じる人の人生の目的は、以下のように、シンプルなものになるわけです。
「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」
(新約聖書 1コリント10章31節)
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」
(新約聖書 マタイによる福音書6章33節)
要するに、「自己実現」ではなくて、「神実現」なんです。