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映画「おくりびと」と「関係の癒し」と「福音」

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 2008年公開の映画「おくりびと」は、当時 アメリカの第81回アカデミー賞 外国語映画賞や第32回日本アカデミー賞の「作品賞・監督賞・脚本賞・主演男優賞・助演男優賞・助演女優賞・撮影賞・照明賞・録音賞・編集賞」を総なめするという、超話題作となった作品です。

主演の本木雅弘さんが、青木新門・著『納棺夫日記』を読んで感銘を受け、その物語をもとにしつつも、新しい作品として映画化されました。

あらすじは、プロのチェロ奏者として東京の管弦楽団に職を得た小林大悟が主人公。ある日突然楽団が解散し、夢を諦め、妻の美香とともに田舎の山形県酒田市へ帰ります。

新しい就職先を探していた時、「旅のお手伝い」と書かれたNKエージェントの求人広告を見つけ、旅行代理店の求人と思い込み面接へ。実は「旅立ちのお手伝い」であり、具体的には納棺(=No-Kan)の仕事だったのです。

しぶしぶ就職しますが、妻には「冠婚葬祭関係」としか告げられない彼。

出社早々、納棺の解説DVDの遺体役。最初の現場は、孤独死後二週間経過した高齢女性の腐乱屍体の処理など、さんざんな目に遭うことに。

それでも少しずつ納棺師の仕事に充実感を見出し始めていた大悟。

しかし、周りの人々、そして妻、美香にも仕事の内容が伝わり、「そんな汚らわしい仕事は辞めて」と懇願されてしまうのです・・・

しかし、死者とその家族との出会いや、NKエージェントの社長がなぜこの仕事を始めたのか、その理由をしらされていくなかで、大吾の心に変化が・・

ラストシーンでは、昔、自分と母を捨てた父親の訃報が大吾にとどきます。

はげしい葛藤のなか、その納棺の現場に大吾は子として、納棺師として赴くことに・・・

さて、映画「おくりびと」が、なぜ当時、多くの人の心に受け入れられたのかなと、自分なりに考えてみたのです。

 物語は、納棺の式を中心に、いくつかのエピソードが綴られていくのですが、そこの「死者」を囲んだ人間関係の中で、何が起こっていくのかというと、人間関係の心の傷がいやされていく出来事であったり、家族の葛藤の和解の出来事であったり、親に捨てられた子の赦しという出来事などが起こっていくわけです。

 いくつかのエピソードのなかには、きっと今の自分の状況(家族の葛藤状態、近親者のとの死別における心の傷などなど)とオーバーラップするエピソードがあり、癒されないまま心の中にわだかまっていた心の痛みに触れられて、癒される思いがする、ということがあるからではないかと推察しています。

 自分自身の場合、父親との関係が、主人公とその父との関係と似ていたこともあり、普段はふたをして見ないようにしていた、父に対する自分の心の傷や感情に触れられるような、そんな体験をしたわけでした。

 そして、どのエピソードにおいても、その中心には、「死者」が横たわっています。「死者」はもう、口を開きません。たとえ、生前、その人との関係において、複雑な感情や心の傷を抱いていたとしても、死を契機に、そのすべては吸い取られていきます。

 そして、納棺師の鮮やかな所作を通し、「死者」はまるで「まだ寝ているだけ」の「生者」のような存在へと蘇らせられることで、その方との美しく、かつ楽しかった過去の思い出が蘇り、その方との関係の癒しが起こっていくのです。

 このいきにくい時代に、私たちが切に求め、あえいでいるところの、「関係の癒し」。それがこの映画が、多くの支持を受けた一つの要因ではないかと思っています。

 しかし、逆を言えば、この「関係の癒し」の出来事が、究極的には、「死」を通さなければやってこないほど、私たちの身近な「関係崩壊の傷」は根深いのだとも思います。そんな今の時代のもつ痛みが、この映画のヒットによって、浮き彫りにされているのかもしれません。

 さて、牧師として伝えたいことがあります。それは、聖書の伝える「福音」とは、まさにその「関係の癒し」をもたらす力なのだ、ということです。

 私たちが互いに関係を壊してしまうのは、究極的には人はだれしも自己中心であるからです。神中心にいき、他者と愛し合う関係に生きるべき人間が、自己中心に生きてしまう。これを聖書は罪といいます。この罪の性質から逃れるためには、自己中心の自我に「死」ぬしかありません。

 しかし、それはどだい無理なことです。人は自分の力で自我に「死」ぬことはできません。それは自分で自分を持ち上げるに等しいことです。不可能です。それこそ、口をひらかない「死者」になるまで待つしかありません。

 しかし、自我に「死」ねない自分の代わりに、キリストが十字架の上で死んでくださった。ここに神の愛があります。このキリストの身代わりの死を、自分のこととして受け入れ、神の愛に感謝していきるとき、自己中心から神中心へと生き方が神によって変えられていく。これは神秘ですが、クリスチャンの現実の体験です。

 神との関係が回復するなら、神の愛が私たちの心に注がれるようになります。神の愛は、自分のことばかりに捕らわれている私たちを解放し、自分を愛するように他者をも愛する関係へと生きる力を与えてくれます。

 そこから、もつれてしまった人と人との「関係の癒し」も始まっていきます。

 死によって「関係の癒し」が起こるのが、「おくりびと」の陰のテーマだとしたら、キリストが身代わりに死んでくださったことを信じて、生きている今、「関係の癒し」の世界を味わい生きる。それが「福音」。

 夫婦の関係の癒し、親子の関係の癒し。互いの関係の平和。それをもたらす、福音の力。神の愛。

 映画「おくりびと」が必要とされるこの時代に、本当に求められているのは、やはりこの「福音」なのではないかと思うのです。

「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、」(新約聖書 エペソ2章13節〜14節)

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