こんな話を聞いたことがあります。
朝鮮戦争のとき、アメリカの兵士が激しい戦場に向かいました。やがて音信が途絶え、彼はなくなったのではないかとご両親は思いあきらめていました。しかし、ある日、病院から電話があったのですね。その電話はなくなったとあきらめていた息子からの電話でした。
息子はこういいます。
「父さん母さん、大変な傷を負ったけれども、やっと元気になったよ」
父親は
「ああ、生きていてくれたのかよかったよかった」
息子は
「ねえ、僕を迎えに来てくれるかな」
父親は
「なにを言うんだ。当然だよ」
「ちょっとまって。父さん母さん、実は僕には友達がいて、大変な負傷をして、両足切断しているんだ。彼も一緒に連れて行きたいんだけど、いいかな」
「ああ、そりゃ、2-3日ならいいよ」
「2-3日じゃないんだよ」
「じゃ、2-3週間なら」
「いや、2-3週間じゃなくて」
「それじゃあ2-3ヶ月なら」
「いや、そうじゃなくて・・・・ずっと、これからずっとなんだよ」
父親は
「ずっとこれから、というわけにはいかないんじゃないかな。両足がなかったら、それは大変だろう」
この言葉に、息子は
「父さん、僕を迎えにこなくてもいいよ」そういって電話を切ったのであります。
両親はわけのわからないまま息子を迎えに病院に向かいました。
そうしましたら、病院の院長が出てきてこういいました。
「残念ですが、息子さんはあの電話の後、自殺してしまったのです。」
そして、自殺してしまった息子のなきがらをみて両親は絶句いたしました。
あの両足のない青年とは、実はこの息子だったからからなのであります。
このような話を聞くと、いろいろなことを考えさせられます。
両親の対応が悪かったのだろうか。
あの時、友達をずっととめてあげるよといってあげればよかったのだろうか、と考えてしまいます。
しかし、本質的な問題はこのご両親の対応にあるというよりも、
この息子さんご自身が、自分自身の人生に起こった出来事を受け入れることができなかったことにあるように、おもわれてなりません。
たとえ親であっても、完全に無条件に無期限に愛し続けることはできないでしょう。それを責めることはだれにもできません。
だからこそ、わたしたちには人を越えた存在への信仰が必要なのです。
人を愛して存在させた、命のみなもとである神を信じる信仰です。
命を与えて下さった存在がおられる。そしてその神は、無条件に、変わることなく、あなたを愛し続けているのです。
人は、自分の狭い価値観で、自分自身を評価しては、自分を責め、あるときは自分で自分を捨ててしまいさえするでしょう。
そういう狭い価値観と、ネガティブな信仰によって、自分苦しめてしまっているのです。
そうではなく、
生きているというその存在そのものに、かけがえのない価値と、宝があることを信じる価値観。
そして、この自分は今も、これからも、大いなる存在に愛されていることを、信じていきていくのです。
若い時、不慮の事故によって全身麻痺になってしまった画家の星野富広さんは
「もし、また生まれてきたなら、また、この同じ不自由な体に生まれたい」そのように言われたと聞いた事があります。
彼は天地を造られた神に愛されていることを信じる、クリスチャンです。
神に愛されている、神様の作品として、自分をとらえ生きているひとです。
そのような星野さんの言葉に感動を覚えます。
自分の今をそのまま感謝して受け止め、生きていくため大きな力を与えてくれる、
聖書のもつ不思議な力を、実感させられるのです。