聖書 新約聖書フィリピの信徒の手紙4章4節〜7節
最初に、無事に2018年を迎えられたことを、主に感謝する意味で、
新年のご挨拶をいたしましょう。
「新年明けましておめでとうございます」
今日も、ここで顔を合わせて、心を合わせて、天を見上げられること自体、実に「おめでたい」ことですね。
別に教会は、年の初めだけが「おめでたい」わけではなくて、
毎週、「おめでたい」礼拝を捧げているわけです。
十字架の苦しみは、復活の喜びに至る。
今の失望は、必ず希望に至る。
十字架につけられて死んでしまったイエスを、神は復活させたことを、信じる信仰とは、そういうことです。
ですから、わたしたちは十字架の苦しみ、罪の悲しみばかりを見つめません。
人間にはできないけれども、神にはできる。
死からの復活を信じる、復活信仰が、わたしたちの信仰ですから。
まさに「おめでたい」信仰に生きているのが、わたしたち。
だから毎週「おめでとうございます」とご挨拶していいのです。
大丈夫。苦難は苦難では終わらない。十字架は十字架では終わらない。復活があるから大丈夫。
復活した主イエスは、あなたと共に、今も生きておられるから、大丈夫。喜びましょう。喜ぼう。
そうやって、年に一度ではなくて、毎週、わたしたちは共に集って、礼拝を捧げ続けているわけです。
いまごろ、神社に初詣に出かけている人々は、
神社の神様に、お賽銭をなげて、いろいろなことをお願いしているのでしょう。
「去年はいろいろ問題がありましたけれど、今年こそは、いい年でありますように」と、お祈りしているのかもしれません。
でも毎年毎年、「去年はいろいろ問題があったけど、今年は、いい年でありますように」と、
商売繁盛、家内安全。健康長寿を祈ってみても、
それでも、やっぱり、今年もいろいろ問題が、起こるんですよ。きっと。そうでしょう。
「問題が起こりませんように」と神様に祈ってみても、問題は起こる。
だから、また来年、今年こそ問題が起こりませんようにと、初詣にいくんじゃないですか。
でも、元日に、神社ではなくて、教会にきて、天地を造られた「主」を拝みにやってきたわたしたちは、神様に向かって、「問題が起こりませんように」とは祈らないでしょう。祈りますか。
まあ、祈ってもいいですけど、残念ながら、問題は起こりますよ。
なぜなら、イエスさまは、ヨハネの福音書の中でこういうことを言われたではないですか。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。
弟子たちに向かってはっきりと「あなたがたには世で苦難がある」とイエスさまは言い切ったんです。
イエスさまは、わたしに祈ったら、問題は起こらない。金も地位も健康も、手に入るぞ、なんて、嘘は言わない。そういう、現実逃避をさせてはくれません。
マルクスという学者が、「宗教はアヘンだ」なんていいましたが、そういう宗教もなかにはあるけれども、わたしたちは、そうじゃないでしょう。
苦しみや悲しみから逃避させたり、問題に向き合わなくさせるために、わたしたちは神様を信じようとしているわけではないのです。
はっきりとイエスさまは「あなたがたには世で苦難がある」と言われているのだから。
しかし、その上でさらに、「しかし勇気をだしなさい。既にわたしは世に勝っている」といわれた、このイエス様の言葉を信じて、わたしたちは生きているのです。
「すでに世に勝った」と主イエスが言われていること。これこそ「復活」です。
主イエスは、やがてやってくる十字架の苦しみを見据えながら、すでに、その先の復活の勝利を宣言しているのです。
苦難はある。しかし、復活があるから大丈夫。勇気を出そう。
目の前の辛いことで、心をいっぱいにしてしまわないで、
今日一日、諦めないで、生きていこう。勇気を出そう。
こういうことが言えるのが、まさに、キリスト教の真髄。最大のご利益じゃないですか。
「問題がありませんように」と現実から逃げる信仰ではなくて、
その「問題」に向き合っていく、勇気と愛を与えてくださいと、祈り、願い、乗り越えて、
生き抜き、神と共に、新しい未来を切り開いていく信仰。
2018年も、わたしたちは、この「復活」信仰に生きていきましょう。
さて、今日は、新年の最初ですから、短く、今年度の聖句を、もう一度心に刻んで、新しい出発をいたしましょう。
4節からもう一度読みます。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」
「喜びなさい」という言葉が続く、有名な箇所です。
この手紙が「喜びの手紙」と言われるゆえんでもあります。
そして大切なことは、「喜びなさい」と何度も教会への手紙に書いたパウロは、この時、福音を伝えたがゆえに、迫害され、投獄されていた、その獄中からだった、ということです。
生活も状況も、守られ安定している人が、上から目線で「喜びなさい」と、いっているのとは、わけが違うのです。
むしろ反対に、劣悪な状況に置かれていた、パウロが、それほどひどい状況ではない人々に向かって「喜びなさい」「喜びなさい」と、手紙に書いている。
ここに、ポイントがありますね。つまりこの「喜び」とは、状況とは無関係の「喜び」なのだということです。
もっと奥深い「喜び」ということです。
今朝の朝日新聞の一面に、矢沢永吉のインタビューが載っていたんですね。
年末の武道館で、満杯の観客を前に矢沢さんはこう言ったそうです。
「一瞬のハッピーがあれば、人はまた走れる」
この言葉の意味を、数日後に取材したところ、彼はこう言いました
『神様、成功したら寂しさ、悲しさは消えるんじゃなかったの』と聞いたら、
神様が指さした。
見るとサクセスとは違う、もう一つのハッピーというレールがあった。
成功と、温かくなることは、別だったんだ」
矢沢さんの口から神様という言葉が出てくるとは思いませんでしたけど、一流の人は、自分の限界を超えた大いなる存在に、心が向くものなんですよね。
成功と、ハッピー、「喜び」は違う。彼のこの気づきは非常に深いです。
状況が良ければ「喜び」状況が悪ければ「喜べない」。成功すれば、喜び、失敗すれば喜べない、という、そういうものが「喜び」ではないのだ。
これは、矢沢さんが実際に成功者であるからこそ、実感がこもった言葉でしょう。
パウロもまた、彼の時代にあって、成功者だったんですよ。ローマの市民権をもったエリートで、ファイサイ派の中のファイサイ派。成功者だった。
でも、彼はいまや、そんなものは、イエスキリストを知る喜びにくらべたら、ちりあくただと、いったのです。
そして、むしろキリストのために、苦しみ、投獄されているなかから、彼は「主において常に喜ぼう」とさえ、言っているのです。
これは、決してやせ我慢ではないのです。実際の、パウロはこの世の成功を手に入れていたからこそ、そのむなしさをしっていたのです。
そして、キリストこそが、本当の生きる喜びを与えてくれることを、体験していたパウロだからこそ、彼は、いうのです。
「主において常に喜びなさい」と。
主において、というのは、英語なら、in the LORDと訳されますが、
いまいちわかりにくい。説明しずらい。
「主によって喜びなさい」というほうが、日本語としては、わかりやすいのかも知れません。
「主によって与えられる喜びがある」という、そういうイメージですね。
パウロが、今、辛い状況、問題山積みの中で、なお、静かに味わっている「喜び」。主によって与えられている喜び。
それは「感情」とは違います。「嬉しい」という感情ではないのです。
むしろ、悲しみを感じていながらも、その感情のなかで、
同時に、心の奥底に不思議にながれている「喜び」と、そう表現するしかない、「喜び」です。
心の表面にあらわれてくる「感情」よりも、もっと深いところ。気づかない心の深層のレベルの話です。
そこはむしろ「霊」とか「魂」と表現される次元の話です。
この心の奥底の、深い「喜び」。主によって与えられる「喜び」に気づいたなら、
それこそ、この「喜び、ハッピーさえあれば、人はまた走れる」のです。
今、週に一度、マンツーマンのキリスト教の入門クラスをやっていて、今二人の方が受けていますけれども、前回のクラスのなかで、そのお一人の方が、こんなことを言われたのですね。
不思議な体験ですね。でも、とても大切な体験だと思います。
ヨハネの福音書の中に、サマリアの女性の話があります。井戸の水を飲んでもまた渇くといわれたイエスさまは、しかし、わたしが与える水を飲むものは、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われたことを、思い起こします。
この、心の奥底の渇きを満たす、霊的な命。心の内側からわきあがってくる、感情とはちがう、もっと心の扉の奥深くに、静かな「喜び」を感じている。
神の霊が、復活の主イエスが、内にいてくださることを感じている。
それは、投獄という苦しみの中で、感情的には喜べるわけがない状況の中で、
なお「主において喜びなさい」と言いつづけるパウロ自身が、味わっている「内なる喜び」があった。
もしそうでなければ、「常に喜びなさい」なんてことが言えるわけがないのです。
獄中において、パウロも体験していたし、フィリピの教会も体験できるはずだし、そして、現代を生きている、わたしたちも、体験できるはずだから、パウロは言うのです。
「主において常に喜びなさい」と。
なぜなら、「主はすぐ近くにおられます」というのです。
むしろ、主はあまりにもわたしたちの近くにおられるので、わたしたちは、主を認識できないのかもしれません。
お母さんのおなかの中にいる赤ちゃんのように、
あまりにもお母さんが近くにいるので、おなかの赤ちゃんにはお母さんが見えないでしょう。
お母さんの姿は見えないけれども、それは遠くにいるからではなく、あまりに近くて、見えない。たまにお母さんの小さな声が、おなかのなかの胎盤を伝って、響いてくるような。
わたしたちも、こうして礼拝のなかで、かすかに響いてくる、天の親の愛の言葉を、聞いているのではないでしょうか。
やがて、この世界の外に、新しく生まれ出る日に向かって。
お母さんのおなかの中から出た時、始めて赤ちゃんは、お母さんと顔と顔をあわせるように、
わたしたちも、やがてこの世界から、新しく生まれ出る時、神様と顔と顔と合わせることになる。
遠くにいる神様ではなくて、あまりにも近くにおられるので、気がつかない程に、わたしたちを大切に、抱き続けてくださっていた、「主」と、いつか顔を合わせる日が来る。
「主はすぐ近くにおられます」
2018年も、わたしたちはこの希望に生きていきます。
主は、わざわざ神社にいかなければ、あえない神ではないのです。
6節で
だから「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」とパウロはいい、
さらに「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい」とさえいいます。
わたしたちの神は、「求めているものを、なんでも打ち明けていい神様です」
我慢しなくていいんですよ。「こんなことを求めてもだめだよな」と諦めなくていい。
「求めているものを神に打ち明けなさい」というのです。
わたしたちの「主は」
「商売繁盛専門の神」でも、「合格祈願専門の神」でもありません。
もっと、ふところひろい神です。
ですから、この聖書の言葉を、表の看板に書いて、その下に、
初詣は、神社もいいですが、教会にもどうぞと書いて、賽銭箱をおいておきたいくらいです。。
なんでも求めているものを、神様に願っていいんですよと、道行く人に、申し上げたい。
ただ一つだけ、神様に願う前に、条件があるのです。パウロはそういいます。
なんだかわかりますか?
パウロは「何事につけ、感謝を込めて、祈りと願いをささげなさい」というでしょう。
つまり「感謝です」。「感謝すること」。それが条件です。
一方的に、お賽銭を投げつけて、自分の願いを聞きなさいと、命じるような人に、神はなにも与えないでしょう。
そうではなく、すでに与えられている神の恵み。
神の愛。あなたを罪から救うために、イエス・キリストの命をさえ、与えてくださった
天の神の恵みに、愛に、感謝を込めて、祈り、願うのです。
家内安全、商売繁盛、問題が解決し、病気が癒やされ、自分の思い通りになったなら、
神様に感謝しましょう、というのでは、ただの取引です。
そうではなく、問題の只中で、すでにこの世に勝利し、復活した主イエスを信じ、
私たちの問題や課題も、その先に、天の神は、必ず良いものを備えてくださっていることを、
まだ見えていないが、やがて明らかになる、復活の恵みを、
先取りして、問題の只中で、感謝するからこそ、それは「取引」ではなく「信仰」となるのです。
自分の思い通りにしないなら、「神に感謝」しないのは、あまりにも、あまりにも傲慢ではないですか。それでは思い煩いはなくならないでしょう。
この世界は、自分の思い通りになっていく、自分の国ではなく、
神の思い通りが実現する、神の国へとむかう、神の物語を、私たちは生きているのです。
神の大きな愛の物語のなかで、わたしたちは、今日も、生かされている。
息も吸える。食べ物も食べられる。
家族も与えられている。友もいる。美しい教会堂で、こうして祈ることができる。
年を重ねて、できなくなったことも、沢山あるけれど、でも、わたしたちは、神の愛の物語のなかに、ちゃんとおいていただいて、今日も沢山の恵みを頂いて、
今、ここに生かされている。
だから、感謝ですと、祈り、願い、求めているものを、神様に打ち明けていきましょう。
この神の御心、神の愛のなかに、ちゃんと生かされていることを信じて、
「感謝」することから生まれる心のエネルギーこそ、
新しい2018年を、生き抜いていく力となるでしょう。
現実逃避ではなく、現実をちゃんを見つめて、
でも十字架だけではなくて、そのさきの、復活をちゃんと見つめて、期待して、
最後に、「感謝」して祈る人に、パウロが約束した言葉を、心に留めたいと思います。
7節
「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心を考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」
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