前回は聖書が伝えている「神」はこの宇宙(天と地)を造られた「神」である、という話をしました。
今まで便宜上「神」という言い方をしてきましたけれども、
日本人はちょっと凄いものなら、なんでも「神」と呼んで祀ってしまうでしょう。
最近は、すごい人を指して「神ってる」と言ったりしますしね。
なので「神」という言い方だけでは、ちょっと天地を造られた存在を言い表すには、足りない。
聖書のなかでは「主(しゅ)」という言い方をしているのですね。
旧約聖書はヘブライ語で書かれていますけれども、「ヤハウェ」と発音され、日本語では「主」と訳されます。
「ヤハウェ」とは「わたしはある(存在している)」という意味ですね。
旧約聖書の「出エジプト記3章13節~15節」に、「主」ご自身がご自分について語っている箇所があります。
今までも、今も、これからも存在する、永遠の存在が「ヤハウェ」。「主」
キリスト教は、ちょっと人間を強くしたような「神っている」存在を信じているわけではなくて、
他に比べようのない永遠に存在する「主」との関係に生きるわけです。
具体的にはクリスチャンは「主よ」と神の名を呼んで、祈り始めるわけです。
さて一方で日本人が「神」をイメージするときに、この「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
(どなたさまがいらっしゃるのかよくはわかりませんが、おそれ多くてありがたくて、ただただ涙があふれ出て止まりません)
と詠んだ西行法師さんのイメージは、とても共感されるんじゃないかと、おもうんですよ。
日本人は昔から、自然の中にそういう神秘的で、なんだかわからない力を感じ取ってきたんじゃないかと思います。
山々を駆け巡って修行する山伏さんとか、そういう感覚がするどいのだろうなと思いますよ。
そういう神様にたいするイメージからすると、
「神様の名前とか、神様の説明なんて、野暮だねぇ」とおもうでしょうね。
神さまは、よくわからない、ことばにならないからこそ、神なんじゃないかと・・・・
わたしも日本人なので、そういう感覚は良くわかるんだけど、
でもそれじゃあ、その神様との関係が持てないじゃないですか。
よくわからない雲のような存在と、どうやってコミュニケーションするんですか・・でしょう。
ちゃんと名前を呼び合う関係のなかでこそ伝わる愛があるものじゃないですかね。
さて、天地を造られた「主」は、ご自分からその名を名のられたのだから、つまり
わたしたちから「主」と呼ばれることを望んでくださっている、ということじゃないですか。
それこそ、「かたじけなくてなみだこぼれる」というものです(涙)
さて、キリスト教の伝道者でパウロという人が、約2000年まえのギリシャのアテネで、
「主」を伝えときの言葉を、引用して今日は終わりにしましょう。
「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。
道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」>
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