はい、その通り。
教会だって、お金は大切。もちろん必要ですよ。
でも、こんなに正面切って質問してきた人に会ったことは、今までないですね。
まあ教会では「お金」のことって話題にしにくいのだろうなと思うのです。
それはおそらく「お金」というものに対する、悪いイメージがあるのでしょうね。
この世界は、いつも「お金」にまつわることで事件が起こっていますからね。
「お金もうけ」というと、なにか汚れているような、イメージがあるでしょう。
なので、教会はお金には関わらないで、清貧であるべきだよね、っていうイメージが、昔からあるんですよね。
でも、そこはちゃんと資本主義社会とか貨幣経済における、「お金」の役割と意味について、
イメージではなくて、常識としてまずは基本的なことを理解しておかないとね。
一言でいうなら、「お金(貨幣)」とは、清くも汚れてもないただの「紙」であり、
物やサービスと交換する「道具」です。それ以上でもそれ以下でもありません。
大昔は、魚を釣った人が、野菜を食べたかったら、農家にいって、魚と交換したわけですね。でも物々交換では大変なので、貨幣によって、物やサービスを交換するようになったわけです。
なので、「貨幣」はなにも交換しないうちは、「紙」以上の価値はないのですね。
「紙」の状態では食べることもできないでしょう。「お金」とはなにかと交換したとき初めて「価値」が生まれるのです。
さて、教会に集ってきた人々は、神様への感謝として「献金」をします。
その「献金」は、何にも使わないうちは、ただの「紙」。まだ何の価値も発生していません。
その「紙」である「お金」を、福音のために使ったとき、はじめてそれは「献金」としての「価値」が生まれるのです。
ですから、教会は集めた「献金」を、福音のための活動のために使うわけです。
それは、毎週礼拝をするために、教会堂の電気代だったり、暖房費だったり、
福音を広めるための教会の活動や、説教などの活動をする、牧師の生活を支える費用としてつかったりするわけです。
というか、そういうことに使うからこそ、「献金」は「ただの紙」から「献金」になるわけですよ。
さて「いやーお金は汚れているから、教会には必要ないんじゃない」というならですね、
たとえば、日曜日の礼拝の時間には、教会のみんなで自転車をこいで、教会の電気を発電しなければなりませんね。
そして、夏のうちに、どこかの山から切ってきた木を、乾燥させておいて、薪にしたものを燃やして暖房しないとね。
教会のみんなで育てた野菜や豚や羊をほふって、牧師の食事を確保しないと、まずいよね。
そういうことをしつづけないと、毎週日曜日の礼拝さえ、維持できないんですよね。
なので「お金」って道具は、まあ、有難いわけです。
だから、むしろちゃんと教会こそ、その道具を使いこなして、
この世界に、神の愛の福音を、もっとつたえていきたいわけです。
お金の使い方が分からない人に、お金をわたすと、ただ自分の為だけに、散財して、身を滅ぼしてしまうでしょう。
そういう人には、お金という道具を渡してはいけない。危険です。
むしろ、神の福音を告げ広めていくために、隣人に仕えていくために、
「お金」という道具を教会に集めて、使いましょう。
それが、教会が「神様への感謝の献金」をしている、意味と価値なんですよ。