やさしいキリスト教入門

「なぜ怖がるの」(2018年1月28日花小金井キリスト教会夕礼拝メッセージ)

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NeuPaddy / Pixabay


人生には三つの坂があるという言葉を、ご存知ですか。

一つ目は、上り坂。まあ、若い時のことですね。

そして二つ目は、下り坂。年を重ねて、だんだんできることが少なくなっていくことでしょうね。

そして三つ目は、なんでしょう。

「まさか」です。

ある日突然、その「まさか」が起こる。それが、この地上で生きている、わたしたちの現実ですね。

違う言い方をすれば、人間は、ほんの少し先の未来も、分からないということです。

信仰的な言い方をすれば、神さまによって、未来は隠されている、と言えるでしょう。

明日なにがあるかわからないから、「不安だ」というよりも、

むしろ、明日なにがあるかが分かってしまう方が、辛いかもしれない。

明日、いやなことがあるとわかったら、もう、今日から辛くなってしまうでしょう。

なので、人間は、明日のこと、1分先のことさえわからないのは、

神さまの憐れみだと思います。

明日どうなっているか、10年後、どうなっているかなど、わからないし、わからなくていいということです。

人間が将来にビジョンを夢をもつことは素晴らしい事です。

自己実現とか引き寄せの法則とか、自己啓発系のビジネス書を読むと、未来に具体的なビジョンを描きなさい。

それがもう、実現しているように思い描きなさい。そうすれば、そのビジョンを引き寄せることができるよ、とそういうことを言います。

それは、人間の潜在意識に強くイメージすることで、そもそも自分自身の認識や決断、行動が変わっていって、結果としてイメージした未来を引き寄せることができるのだという、原理なのですね。

しかし、そういう考え方が、決定的に欠けている点があるわけです。

それは、この世界には人間にははかりしれない「まさか」が起こるのだということです。

もう少し聖書の言葉でいえば、この世界は人間の思い描いた通りに実現する世界ではなくて、

天地を造られた神が、思い描いた通りに、実現していく世界なのであって、

わたしたちはその、神様のビジョン、神さまの夢。

この世界に神の国がもたらされるというビジョンに、仕えさせていただいている。

つまり、自己実現ではなくて、神実現こそが、本当の意味の自己実現ということです。

人間は、過去に沢山失敗をしてきましたし、わたしたち個人の人生においても、沢山の失敗があると思いますけれども、

たとえそうであっても、この世界の歴史も、私たち一人一人の人生も、自分が作り出している歴史ではなく、わたしたちに命を与え、守り導いておられる、神の歴史。

神が導き、神が私たちを通して働き、現実となっていく、神の国への歴史です。

神の歴史なので、その歴史の中には、人間の想定外である「まさか」も、起こるわけです。

むしろ「まさか」が起こらないなら、わたしたちこそが、「神」になってしまっているわけでしょう。

逆説的な言い方ですが、人生に「まさか」があるからこそ、わたしたちは人間らしく、神が与えて下さった、自分の予想をはるかに上回る人生を生きていけるわけですから。

今、こうして美しい礼拝堂で礼拝を捧げていることも、50年前のひとたちからすれば、「まさか」でしょう。

人間の想いを越えて、全てを見通しておられる神の計画が、神の国の完成に向かって、ちゃんと実現していっている。

世界の歴史も、わたしたちの人生も、

行き先のわからない人間がつくっているわけではなく、最終的な行き先が分かっている、神さまが導いてくださっている。

その神の言葉として、人となられたイエスさまが、わたしたちの一歩先を歩いて、後についておいでと、招いて下さっている。

そのイエス様についていくことが、実は、一番安全であり、近道ということです。

たとえイエスさまの後についていったその先に、「まさか」がまっていてもです。

今日の聖書の箇所で、「向こう岸にわたろう」とイエスさまに言われて、そのまま素直に舟に乗った弟子たちのようにです。

夕方からガリラヤ湖を横断するというのは、実はあまりいいアイデアではない。

弟子たちのなかには、元漁師が何人もいたわけですから、それくらいわかっていたでしょう。

なぜ、これから夜になるこんな時間に、舟を出すのかと、いろいろと頭の中で、ごちゃごちゃ考えたかもしれません。

でも、弟子たちはとにかくイエス様の言葉に従って、舟に乗り込んだのです。

漁師の経験も貴重です。でも時に、そういう経験があだとなって、失敗することもある。

雪国で過ごした経験があると、東京でちょっと雪が降ったくらい、大したことがないと、甘く見るものなのです。

わたしは二年前、まさにそういう驕りによって、失敗しました。この程度の雪なんてすぐに溶けてなくなると、高をくくって、ちゃんと雪かきしなかったのです。その結果何週間も教会の前の路面が凍結しつづけたという、苦い経験をしました。

経験からくる知恵はとても貴重です。経験したこともないのに、頭でっかちになっている人よりは、経験した人から、学ぶことが沢山あります。

それでもやはり、どんなに経験を積んでも、人間というものは、1分先のことさえ、分からないのです。

「まさか」が起こるのです。

そうであるならば、人間の経験を越え、時間を越え、

この歴史を導いておられるお方の言葉に従って、その後についていった方が、賢い選択ではないですか。

もちろん、「賢い選択」といっても、それは、リスクがない選択という意味ではないのです。

なにも問題もない、平穏無事の選択、という意味ではないのです。

イエスさまの言葉を信じて、その後についていったがために、弟子たちはむしろ、平穏無事ではなくなったわけですから。

まあ、ある意味、ちゃんと嵐に遭遇した。ちゃんと問題にぶち当たったと言えます。

でも、大切なポイントは、この嵐に遭遇した舟の中で、イエスさまはちっともあわてていない、ということです。

それどころか、すやすやと眠っていたのです。

嵐が起こらないので、問題が起こらないので、すやすや寝ていたわけではないのです。

平安だったわけではないのです。

そうではなくて、弟子たちの目には、嵐が起こり、問題が起こり、大変なことに見える現実でも、

イエス様にとっては、すやすや眠っていられる平安だったということが大切なポイントなのです。

もちろん、弟子たちは、そういうわけにはいかないですよ。

もう、今日が人生の最後。

ここで死ぬとは、思いもしなかったと、恐ろしくてたまらなかったでしょう。

そして恐れや不安が転じて、すやすや眠っているイエス様への「怒り」になった。

そして叫んだわけです。

「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と

面白いですね。イエス様が慌てていたからではなく、冷静に寝ていたので、弟子たちは気に入らなかったということでしょう。

それなら、イエス様も一緒に慌てふためいていたら、良かったのでしょうか。

それじゃあ、本当に舟は沈むことになったでしょう。

嵐のなかでも、神の愛の御心を信じて、一つになって、大丈夫。「なぜ怖がるのか」と言ってくれる存在こそが、嵐の舟を救ってくれるのです。

この地上という大きな舟も、その乗組員であるわたしたちは、戦争や災害や様々な恐れや不安の嵐に出会うたびに、

「神さま、どうしてこんなことがあるんですか」と叫ぶでしょう。

身近な人や、自分自身に、辛いことがあると、「神さま、どうして」と叫びたくなるでしょう。

わたしたちは、1秒先のこともわからない人間。目の前のことだけしか見えない、目の悪い羊のようなものだから。

どうしても、目の前で起こっていることだけが、この世界の現実。人生のすべてだと思いこんで、恐れてしまう。

しかし、神はすべてを見通しておられ、その神と一つである主イエスが、すやすや舟のなかで眠っておられるのなら、弟子たちも、そしてこの地球という舟に乗っているわたしたちも、なにもあわてなくていい。

目の前のことで一喜一憂しなくていい。

自分の思い通りになれば喜び、思い通りにならなければ、落ち込んだりしなくていい。

いちいち、もうだめだとジタバタしなくていい。

わたしたちが乗っている舟には、主イエスも乗っているのだから。

わたしたちの人生という舟。この世界という舟には、主イエスも乗っておられる。

そのことを、主イエスは、弟子たちにはっきりとわからせてくださるために、

風を叱り、湖に向かって、「黙れ、静まれ」と宣言して、嵐を静めてくださいました。

おそらく、ここでは、弟子たちがあんまり叫んで呼ぶので、イエス様は「しょうがないなぁ」という感じて起き上がって、目の前の問題、つまり嵐を解決してくださった、ということでしょう。

その後イエス様は、弟子たちに向かって「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と、ちょっと不満げに言われていますから。

本当は、イエス様は「黙れ、静まれ」って、弟子たちに言いたかったのかもしれません。目の前の問題でギャーギャー叫んでいる弟子たちに、

なにもそんなに騒がなくてもいいのに。大丈夫なのに。

「向こう岸に渡ろう」と招いたのは、主イエスご自身なのだから。

その主イエスが一緒に乗っている舟なのだから、必ず向こう岸に渡れる。

向こう岸にわたることが、神の御心なのだから、絶対大丈夫なのだから。

自分にとって想定外の嵐が来たからといって、おそれて、わー、死んじゃう。もうだめだ。なんでイエス様は寝ているんだって、騒がなくていい。

「黙れ、静まれ」って、言われているのは、実は弟子たちだったと思う。

そして、すぐに恐れてしまう、わたしたちのことですよ。

わたしたちにも、今日「黙れ、静まれ」ってイエスさま言われているのではないですか。

「なぜ恐がるのか。まだ信じないのか」って、それはわたしたちへの語りかけではないですか。

日本語に、「一寸先は闇」という言い方がありますね。

今は良くても、ちょっと先には、闇がある、悪いことがあるって、実にネガティブな言葉ですけれども、

主イエスの十字架の苦しみは、復活の希望に至ったことを知っているわたしたちは、

「一寸先は闇」じゃなくて、「一寸先は光」で行きましょう。

十字架は、復活に至る。いや十字架と復活は一つ。十字架復活です。

目の前の十字架ばかりみないで、

イエスさまが一緒に載っておられるのだから大丈夫。

風や湖の従わせる主イエスが、この世界を神の国へと、今日も導いているから大丈夫。

わたしの母が佐渡島に住んでいて、10年くらい前の冬に、新潟からフェリーで佐渡に家族で渡ったことがあるのです。

冬の日本海は大荒れで、舟は揺れ、立っていられないほどでした。

乗客の人々は、舟が大きく揺れるたびに、ぎゃーと悲鳴を上げました。

私たち家族は、ただただ、祈っていました。舟のうえでは、逃げようもないし、できることはお祈りしかないからです。

結局無事に佐渡についたのですけれども、その後まだ小学生の低学年だった長女は、この出来事をきっかけに、イエス様を信じてバプテスマを受けると言い出したのでした。

あの嵐の経験を通して、イエス様が守ってくださったという、信仰の体験を、彼女はしていたのです。

その後時を移さず、イースターの日に、長女と長男は一緒にバプテスマを受けました。

いつ嵐がやってくるかは、人にはわかりませんし、できれば「嵐」なんて無い方がいいのですが、

でも、「嵐」のおかげで、本当の意味で、主イエスのことを知るという、恵みの体験をすることもあるのです。

十字架は復活の主イエスとの出会いへの通り道。

「一寸先は光」の素晴らしい神の出来事と出会う、道。

さあ「向こう岸に渡ろう」と招かれる主イエスの後に、今週も一歩一歩、ついていきましょう。

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執筆者について

執筆者:しゅういち

東京、山形などで牧師をし、現在は東京都小平市の花小金井キリスト教会で牧師をしています。牧師になるまえは、プロの吹奏楽団で仕事をしていました。

世界のベストセラーである「聖書」から、毎週日曜日、わかりやすくおはなししています。教会のホームページもどうぞご覧ください。

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