親が自分の子どもを愛するのは当然だと言われますね。
でも果たして本当にそうでしょうか?
子どもへの虐待のニュースが後を絶ちませんね。
親が未熟だから、子どもを虐待するのでしょうか?
しかし、初めから成熟した親などいるわけがありませんね。
誰もが、子供が生まれて初めて、 親という働きを始めるわけですから。
そうなのです。実は、親というもの、立場である前に、働きです。
子供が生まれた瞬間に、人は親の立場になってしまいますが、親の働きをすることと、立場は、実は別のことです。
親の働きとは、まず子どもの安全を守り、子どもが成長できる環境を与えることです。
それは具体的には衣食住、そして教育の環境を提供することですね。
そして やがて一人立ちしてことができるよう、励まし続けること。それが具体的な親の愛の働きの形です。
ただ、その中には、この社会で生きて行くための、ルールやマナーを伝える、という親の働きもあるでしょう。
いわゆるそれが「躾(しつけ)」と言われるものです。
よく子どもを虐待していた親は、虐待ではなく、「躾」をしていたのだ、といいます。
子どもに何か、ルールやマナーを教えこもうとして、行き過ぎた暴力に至ってしまうのです。
皮肉なことですけれども、その親の暴力こそ、この社会を生きていくことにおいて、ルールやマナー違反であることに、まずは気がつかなければならないと思います。
つまり、他人にそのようなことを行ったら、犯罪になることなのに、自分の子どもには、平気でしているわけです。
その根底には、親子関係における「甘え」の構造があるように思います。
親子以外には許されないことを、肉親だからしてしまえる。そういう意味での「甘え」です。
しかし自分の子どもと言っても、別の人格であり、人権があり、決して自分の所有物ではないはずです。
その親も、自分の親の所有物になど、なりたくないように。
子どもとは、あえていうなら、神様から一時的に預かった、大切なお客さんです。
やがて、独り立ちし、旅立つまで、お世話させて頂くのです。
そのように、子どもの命、こどもの存在そのものに対する、尊敬の念が、「甘え」を断ち切るために必要です。
子どもを愛することと、子どもを尊敬することは、切り離せないことです。
その尊敬とは、人の能力や行動に対しての尊敬ではなく、命そのもの、存在そのものに対する尊敬。畏怖です。
初めて赤ちゃんが生まれてきた時、その赤ちゃんを見、抱いたときの、あの思い。
今まで存在しなかった命が、そこに存在している。ちいさくてもいきている、その命に対する、驚きであり、畏怖からくる尊敬。
親が、このときの心に立ち返る時、今の状態がどうであれ、子どもを愛し、大切にする思いが、湧いてくると思うのです。