心病む方々と共に生きる、北海道のベテルの家では、「当事者研究」ということをしています。
ソーシャルワーカーの向谷地さんが始められた「当事者研究」とは、
問題行動を抱えている当事者自身が、自分自身の内面をみつめ、向き合い、分析し、客観化する、ということです。
そして、その客観化した「自分」を、自分自身が受け入れていくために、「ユーモアーで笑い飛ばす」ということをします。
また「みんな同じ弱さを持っているんだよね」と「弱さの情報公開」をして共感しあうことで、ゆるし合い、人間関係を回復していこうとしています。
詳しくは「べてるの家」を検索してみてください。
さて、この「当事者研究」ですが、
実は、すでに教会がしてきたことだと思うのです。
教会の場合は、「自分の弱さ」というよりも、もっと本質的な「自分の罪」と向き合います。
神のみ言葉という鏡の目にたち、自分の罪に向き合い、その醜さ、汚さ、自分勝手さに、目をそらさず向き合い、自分に失望さえします。
しかし、そのような自分をなお愛し、主が犠牲を払って救ってくださった、十字架こそを、自分の誇りとするのです。
その十字架の愛に共感し、十字架の愛ゆえに、互いにゆるしあい、ともに生きていこうとします。
その表現として、共に集い、こころをあわせて礼拝を捧げる。それが教会という現場です。
ですから、「当事者研究」は、なにもベテルの家だけがしているわけではなく、
今、神の御言葉という鏡の前で、自分自身を見つめ、自分の「罪」と向き合おうとするなら、
だれでもすでに「当事者研究」をしているわけです。
教会では、日曜日の朝の教会学校や、お祈り会において、聖書を共に読みながら、自分自身に向き合うとき、「当事者研究」がなされています。
聖書の御言葉を前に、自分自身の弱さ、罪と向き合い、神の愛によって乗り越えて行こうとするのです。
しかし実際には、教会でさえ、これがなかなかできないものです。
自分の罪に向き合うということは、しんどいことだからです。
神にゆるされていること、神の愛というセーフティーネットを本気で信じなければ、できません。
そして、教会で、この「罪人」としての、「当事者研究」ができないなら、「弱さの自己開示」もできません。
互いの弱さ、罪をオープンにして、祈り合うためには、
お互いの間に聖書をおいた「当事者研究」が大切なのです。