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<教会は何屋さん>
床屋さんには、髪を切りに行きますね。床屋さんに行って、「薬をください」といっても、「そんなものはないよ」と言われます。学校に行って「ラーメンをください」といっても出てこないし、スーパーに行って「英語を教えてください」といっても、「そんな物は売っていないよ」と言われるでしょう。
現代はどんな組織にも「役割、専門領域」があります。社会の中である「役割」を果たすための「専門性」を持った人の集まりということです。専門外のことは、互いに他の組織に任せることで社会は成り立っています。
さて「教会」には社会の中でどのような役割を担う専門性があるのでしょう。体の病を治療する専門性は「教会」ではなく「病院」にあります。では、心の病はどうでしょう? 残念ながら、牧師や教会員は、精神科医やカウンセラーの集まりではありません。
さて「床屋」「学校」「病院」「カウンセラー」など、この社会の組織では提供できない「教会」ならではの専門分野は何でしょう。
「教会にしかできないもの」 それは「礼拝」。
教会はいわば「礼拝屋さん」です。人々は神を礼拝するという重要な必要を満たそうとして教会にやってくるといえます。
しかし、それほど「礼拝」は大切なことなのでしょうか?
お金の問題、仕事の問題、人間関係、病気、心の病・・・そういう問題に「礼拝」はなんの力もありません。「礼拝」の目的は、ただ「礼拝」することにあります。
「礼拝」とは「神を拝む」行為です。「拝む」とは大いなる存在に畏敬、崇拝、賛美を現すことです。自分の存在といのちの源に心を開き、自分を明け渡し、深い結びつきを得る行為。それが「礼拝」といえます。
赤ちゃんが不安になってぐずるとき、お母さんに抱っこされて安心します。お母さんに自分のすべてをゆだね、明け渡し、結びつくとき、赤ちゃんは平安を体験します。
神の子である人が、天の親である神を礼拝することも、似ています。
人間はだれも自分一人ではいきられません。自分以上の存在に依存しつつ生かされています。人間は自分をゆだね、明け渡しても大丈夫な存在、このありのままの自分を愛している、自分を越えた大いなる存在に繋がることを欲するのです。
「礼拝」とは、その人間の重要な必要を満たす営みといえます。
ですから、「礼拝」は、何かをするためでも、問題を解決するためでもなく、「礼拝」することだけが目的なのです。
<映画「終わったひと人」>
さて、わたしは先日舘ひろし主演の「終わった人」という映画を観ました。
東大卒のエリートで仕事一筋だった主人公が、会社を定年退職した途端に、時間を持て余し、公園、図書館、スポーツジムなどで時間を潰す生活になります。
美容師として忙しく働く妻につい愚痴をこぼし、次第に距離を置かれてしまい、再就職を探しても高学歴・高職歴が邪魔をして就職口も見つからない。カルチャースクールでの出会いや、スポーツジムでの出会いから、第二の人生が始まるように思えても、次々と災難が降りかかり、結局、妻から愛想を尽かされ、「卒婚(別居生活)」を提案される・・・そんな定年後の悲哀をコミカルに描く娯楽映画です。
主人公が桜を見ながら、「散る桜、残る桜も散る桜」と人生のはかなさをつぶやき、「まだ終わるわけにはいかない」と無理をする姿に、身につまされる気がします。「思い出には勝てない」というセリフもありました。かつての「できる自分」と戦っても「できない自分」は勝てないのだという意味なのでしょう。
「できる」ということに価値を置いてきた人は、「できなく」なったなら「終わった人」になるしかありません。しかし人間はその最初から「なにもできない人」として生まれ、にもかかわらず、天から与えられた命として「愛されて」育っていくのです。
老いによって一つ一つ「できる」ことを手放していくプロセスは、赤ちゃんのときのように、神様の懐に自分自身をゆだね、明け渡していくための、練習なのかもしれません。最後は赤ちゃんのように、すべてを天の親にゆだねる達人となり、神と繋がる「礼拝」の喜びを知る「終わらない人」となるために。