なにかをするには、何かをされる人が必要
今日も、なにも良いことをしなかった。
それなのに、こうして生きている。
自分は、無駄に生きているんじゃないか。
そんな心の苦しみを感じていませんか。
もしそうなら、このことに気づいてほしいのです。
まず、人が生きているということは
「自分が何かする」か「人が自分に何かする」か
常に、二つの内のどちらかをしている状態ですね。
そしてつい「自分が何かする」ことに価値があると考えますが、
「自分が何かする」ためには、それを「される人」が必要なのだ、ということなのです。
寝たきりの人は、他の人のために何かをすることはできないでしょう。
それでは、生きている意味がないということでしょうか?
そんなことはありません。
他の人が何か行う愛の行為を、まっすぐ受けとめる、という尊い働きをしているのです。
人を「愛する」「世話をする」ということは、それを「される人」がいて初めてできることなのです。
これは重要なことです。
人々に愛を注いだマザーテレサが聖人と呼ばれるのなら、
マザーテレサを聖人にしたのは、その愛の行いを「されるがまま」に受けてくれた人々なのです。
家族のために何か良いことをすることと同じくらい、
愛の行いを「されるがまま」受けてくれる家族の存在は尊いのです。
人生は、何かをするためにある、という偏った考え方に毒されると、
必ずいつか、生きる喜びを失う時が来ます。
今、生きているということは、今まで助けられ、支えられ、愛されてきたということです。
愛を受け取るという、大切なことをしてきたのです。
はじめに人は、何もできない状態で生まれ、
やがて何もできなくなって、この地上を離れていきます。
人生は、何かをするためにあるのではなく、
何かをしたり、されたりする
そういう愛のコミュニケーションを体験するためにあるのです。
そこに生きているだけで、
だれかによって、生かされている存在でいるだけで
十分なのです。