前回は「祈りの生活に入る」というテーマで、私たちの「祈り」を、天の親と子の親しい交わりとしてイメージすることから始めました。生まれたばかりの赤ちゃんが繰り返し繰り返し親の語りかけを聴くことで、新しい世界の言葉を身につけていくように、神の子とされた私たちも、聖書の祈りの言葉、その語り口に触れていくことで、次第に自分の祈りの言葉を身につけていくものなのでしょう。
詩編の祈りにふれる
さて今回は「詩編の祈り」という大きなテーマを掲げることになりました。もちろんこの限られた紙面では「詩編」という大海のその一滴にさえ十分に触れることはできません。そうであっても、私たちの祈りを少しでも深めていく願いをもちながら、詩編の祈りの言葉に触れてみたいと思います。
「信仰生活の手引き『祈り』」(左近豊 著 日本キリスト教団出版局)の中で、著者は詩編についてこう言います。「詩編というのは、ある天才的な一人の詩人、あるいは深い霊性を持った卓越した一個人の経験が言葉に結実したのではなく、何世代にもわたって何人もの人々が、共同体が、幾つもの時をかいくぐりながら、その時代に特有な数々の経験と悲しみを踏まえて洗練し、推敲し、言い換え、磨きをかけ、もっともふさわしい表現を模索し格闘を繰り返しながら紡いできた言葉の結晶です」(P.51)
信仰の先達が何世代にもわたって紡いできた祈りの言葉の結晶。それが詩編。ともするといつも同じ言葉、差し障りのない美辞麗句を並べるだけの退屈な祈りになりやすい私たちの祈りに、「詩編の祈り」は多様で豊かな祈りの言葉を教えてくれます。16世紀の宗教改革者たちは、形骸化した信仰生活、マンネリ化した祈りを打破する原動力として詩編の祈りに徹底して向き合ったと聞きます。またジャン・カルバンは詩編の注解の冒頭で、詩編を「魂のあらゆる部分の解剖図」と呼び「その中に描写されていない人間の情念は、ひとつも存在しない。・・・われわれが神に祈るに際して、われわれを励ますに役立つあらゆることが、この書の中で教えられている」(旧約聖書注解 詩編Ⅰ)と言いました。私たちの現実の生活の中で日々感じる思いや、感情を、活き活きとした祈りの言葉にしていくために、様々な感情が描写され、多様なスタイルのある「詩編の祈り」に触れることは、私たちの祈りの言葉に新たな刺激を与え、刷新し、深めてくれます。
詩編の祈りは、実に多様で豊かな言葉に満ちた祈りです。神への賛美を呼びかけ礼拝へ招く喜びに満ちあふれた言葉、神の力と業といつくしみをほめたたえ、感謝する言葉、危険や試練の中でなお神への信頼を言葉にしたり、過去の神の業、出エジプトにおける神の救いを思い起こさせる言葉、神こそが全宇宙の王であるとほめたたえる壮大な言葉など。実に豊かな祈りの言葉の数々を教えてくれます。
嘆きの祈り
そしてあらためて詩編の祈りの言葉のなかには、実に多くの「嘆き」「訴え」の言葉があることに圧倒されます。「主よ、わたしを苦しめるものは、どこまで増えるのでしょうか」(3編2節)。「主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」(10編1節)。「逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き 彼の反逆を余すところなく罰してください」(10編15節)。「神よ、なぜあなたは 養っておられた羊の群れに怒りの煙をはき 永遠に突き放してしまわれたのですか」(74編1節)「わたしの叫びに耳を傾けてください。わたしは甚だしく卑しめられています。」(142編7節)
実に詩編の約四割が嘆き、嘆願の祈りと言われます。
私たちが、天の親と子の愛の交わりとイメージしつつ詩編の祈りの言葉に触れるとき、これらの嘆きの言葉の数々は、あまり心地よい言葉、語り口とは思えないかもしれません。虐げる敵からの解放を願う言葉、神の不在や沈黙を厳しく問う言葉、敵への報復を求める言葉の数々は、現代に生きる私たちには違和感さえ感じる言葉です。
しかし逆をいえば、そのようなストレートな嘆きや問いを、すべてを受け止めてくださる神に対する深い信頼がそこにあるのではないでしょうか。主イエスは、不条理の極みである十字架の苦しみの中で「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか・・」(22編2節)と祈られました。神に見捨てられたとしか思えない不条理の苦しみの中で、なおこの詩編は「わたしの神よ」と呼びかけるのです。もしこの詩編の記者が神への信頼を失っているならば、「わたしの神よ」と呼び、嘆き、訴えるでしょうか。むしろ「わたしの神よ」と呼ぶお方の真実、愛に対する信頼ゆえに、「なぜ」と問うのではないでしょうか。主イエスはこの詩編22編の祈りを、ご自分の祈りとして十字架の上で祈られたのでした。
不条理に満ちたこの世界の現実の中で、神を天の親と信じるからこそ、神に「嘆き」「訴え」ないではいられない。そのような詩編の祈りの言葉に触れるとき、わたしたちは祈りにおいて、本当に自分の心の思いを言葉にしているか。つい決まり切った言い回しや、心の思いとは違う美辞麗句を並べた祈りに終わっていないか、問われます。
慰めと希望を与える祈り
しかしここでさらに大切なことは、嘆きの祈りが嘆きでは終わっていない、ということです。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか・・」(22編2節)と始まる22編も「・・・成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう」(31節)と感謝と賛美に至ります。「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う。『おまえの神はどこにいる』と。」(42編4節)と嘆いている信仰者の祈りも、最後には「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう 『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」(42編12節)と、神を待ち望む「礼拝」と神の救いを告白し、宣言する言葉へと至ります。
そもそも、詩編の祈りは礼拝のなかで用いられてきた祈りです。日常生活の悲しみや罪の痛みを抱えながら集う人々は、まず、神の前に罪を告白し、嘆きを訴えることでしょう。しかしやがて礼拝において大切なことが起こるのです。。それは神の言葉が語られ、救いの約束が宣言されるということです。そこで神のみ言葉をいただいた人々は、もはや以前のように嘆き続けることをやめ、神の救いの約束に満たされ、恵みに生かされる者となり、涙をぬぐって神を賛美するに至るでしょう。そのような一連の出来事が、嘆きから賛美に至る詩編の祈りにおいてイメージできます。
ディートリヒ・ボンヘッファーは、ナチス政府に屈しない教会の抵抗運動を起こし、最後は処刑されました。その彼は獄中において、詩篇を読み神を礼拝したと言われます。詩編の祈りは、苦しみの現場から神を呼ぶ人々が、悲しみを直視しながら神にまっすぐに訴える言葉を教え、真実なる神と対峙した先にある慰め、感謝、賛美の祈りの数々をわたしたちに伝えてくれる、祈りの言葉の宝庫なのです。