あなたは「目に見えないものは信じないぞ、 自分の目でみたら信じてやろう」というタイプでしょうかね。
さて、じゃあ空気は目に見えませんけど、どうしましょう。ないんですかね。
電波も目にはみえませんねぇ・・・。え、機械で計測できるものなら、「ある」と認めてもいいんですかぁ。
では「心」はあるんですかねぇ。脳波をはかれば、心はあるといえるんですかねぇ。
「心」を直接計測する機械が発明されるまでは、「心はない」ということにしておかないといけないんじゃないですかね。
理屈っぽくてすいません。でも、気づいてほしいんですね。人間が見ている世界なんて、実に狭いのだ、ということを。
さて、今日お話ししたいテーマは、「聖霊」なのです。
キリスト教は、神は「聖霊」として今も働かれていることを信じる宗教です。
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(新約聖書 ヨハネによる福音書4章24節)
ただ、「霊」という言葉を聞くと、とたんに「いかがわしさ」を感じてしまうでしょう。とくに現代人はね。
「人間が認識できないものは考えないことにしよう」ということを言ったのは、たしか近代哲学、合理主義の父、デカルト。
この考え方に、わたしたちはかなり洗脳されていますからね。
数字で表せないこと、実験で再現できないこと、人間が認識したり実証できない、その最たるものが、
この昔からいわれてきた「霊」ということ。
なので、「霊」に関しては、考えないことにしよう。
そういうことだったと思うんですよ。
実証も証明もできないんだから、「なんだって言えてしまうあぶない領域」として「トンでも扱い」されていたんじゃないかと思うんですよね。
でもあえていいたい。「そんなに人間様の認識ってすごいんですかね。そんなにえらいの」と
人間の目に見える「可視光線」や耳で聞くことのできる「周波数」の範囲って、実に狭いんですよ。
もうすこし人間の限界を認めて、謙遜にならないとね。
さて、聖書の神は「聖霊」として、この世界、そしてわたしやあなたに働きかけている。それが聖書の教えです。
ですから、キリスト教信仰はただ神を「主」と信じ、「救い主キリスト」を「イエス」と信じて終わりじゃないんですよ。
そこで終わってしまったら、それはただの頭の中で知識でしょう。
そういう神様に対する考え方を、わたしは認めていますよ、というだけの話。
そんなんじゃ、今を生きる力にも、希望にもならないでしょう。
キリスト教信仰は、「主」を信じ「キリスト」を信じ、
そして、その「主」「キリスト」は今も「聖霊」によって
この世界に、そしてわたしに働いて下さっている。
これを信じ、味わい、体験する「ダイナミックな信仰」なのです。
風は目に見えないけれども、風が吹くと木が揺れて、葉っぱが舞い散り、「カサカサ」と音がするでしょう。
聖霊も「風」や「息」に似ているんです。
聖霊が働かれると、人が動かされ、その人の口から、「イエスはわたしの主です」とか、「イエスさまは私と共にいてくださいます」とか、そういう言葉が出るようになる。
頭の中の知識ではなくて、日々の生活のなかの体験として、「主は今も生きて働いて下さっている」ことがわかるわけです。
「目に見えないものは、ないんですよ」という「洗脳」から解き放たれて、
あなたも生活のなかで働かれている、神の霊。「聖霊」の働きに、心をひらいてみませんか。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネによる福音書3章8節)
※マンツーマンのキリスト教入門クラス 募集中
http://d.hatena.ne.jp/shuichifujii/20171201
※あなたからコメントいただけたら嬉しいです。質問でもなんでもどうぞ
聖書、キリスト教に関する質問に答えます 人生を豊かにするために、聖書の知識は役に立ちます。