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旧約聖書 コヘレトの言葉4章から
一見、ネガティブな響きのある言葉。後ろ向きに感じる言葉です。
でも、そうではないのです。
この「太陽の下」の世界を見つめるとき、
力ある者の理不尽な振る舞い、不条理で不可解な出来事、
どうにもならない悲しみ多い現実を前に、
この世を生きなければならないことへのむなしさを感じる、ということは、
むしろ、物事をまっすぐに見据えている、感性の鋭い人ゆえの、心の叫びなのだから。
それは、たとえるなら、小さな部屋の中に一人で閉じこめられている閉塞感にも通じる。
その部屋の中から出ることができなければ、その小さな空間は、その人にとっての世界のすべて。
その閉じられた空間だけを見つめつづけるとき、人はどうしてもむなしさを感じてしまうのです。
そのむなしさをごまかすために、その部屋のなかでゲームをしているだけが、人生なら、
いつまでもむなしさは消えません。
コヘレトの言葉は、その閉じられた世界の閉塞感を「太陽の下」という言い方で語っているのです。
しかし、その閉じられた部屋は、実は、無限なる外の空間と、薄い壁一つで、隔てられているだけなのです。
部屋の中がすべてだと信じて、むなしく希望なく生きてしまっているけれども、
この世界のすぐそばに、無限なる天が広がっている。
この閉じられた部屋のような世界のすぐそばに、無限に開かれた天がある。
この世という、小さな部屋、入れ物は、実は無限なる外側に包まれ、守られている。
生まれる前の赤ちゃんが、お母さんのお腹の中で、守られて育っていくように。
お腹の中の赤ちゃんには、お母さんの姿は見えないけれど、
それはお母さんが遠くにいるからではなく、あまりに近くにいて見えないのです。
この世界に神なんていないのだ。神を見た人はいないじゃないか。どこに神などいるのか。
この世界の中だけを見ていると、そう感じる。
でも、実は、無限なる外側である、神のなかに、この世界は包まれているから、
神は見えないし、この世界の中に神を見つけられないのです。
実は、この世界は、無限である神に愛され、包まれている世界。
その外側から、この世界に宿ったのが、イエスキリスト。
壁の外側の無限なる神の愛と、わたしたちを、今も、つないでいる。
そのイエスを信じてつながることを、「信仰」というわけです。
「喜び」は、信じてつながった心の中に、不思議に湧き上がってくるものなのです。
牧師です。お話聴きます 牧師です。傾聴ボランティア、カウンセリングの経験もあります。