私はキリスト教の牧師をしています。妻は小学校の現役教師として教育現場に関わっており、3人の子どもたちのなかには、一年間不登校を経験した子もいます。
そのような立場、経験から、多少なりとも子育てや教育に関して考えてきたものとして、この国の教育というものについて、思うところを短く書きたいと思います。
もちろんここに書くことは、「教育論」というようなものではありません。
そうではなく、学校という現場で働く妻と、学校という現場に置かれたで子どもたちと、ともに生きる一人の人間として、心にかけていることを、率直に書いておこうという、メモ書きに過ぎません。
崇高な「教育論」「教育哲学」は、私などではなく、この国の教育行政を司る人々がちゃんと考え、はやく新しいシステムを構築するべきだと考えます。
それがこの文章の結論でもあります。
ただ、今現在、学校にかよう子を持つ親として、今の学校教育に対する疑問、心配、もやもやしている思いを、まずは、言葉にしたかったのです。
年齢で区切って統一カリキュラムに押し込める公の学校教育にたいする、根本的な疑義
さて、わたしがここで言いたいことの結論は、この一点に尽きます。
なぜ、さまざまに成長のペースが異なる子どもたちを、教室という個室に囲い、統一カリキュラムを行い、採点し、結果として、劣等感を植え付けるようなことをするのか、ということです。
そのような画一的で合理的な教育システムは、教育行政側には利便性があっても、習熟度が違う子どもたちに、寄り添い力を引き出していく教育と言えるでしょうか。
富国強兵時代の、工場労働者、サラリーマンなどの、一定の人材を育成するための画一的な教育システムを、未だ温存しているのではないですか。
今後、そのような画一的な知識、技能の仕事は、AIによって、置き換えられていくといわれているのに、学校教育が未だに高度経済成長時代、大量生産時代の、均質な労働力、人材育成を目指しているかのような、画一的な教育をしつづけていることに、疑問を禁じえません。
これからの変革の時代にむかう、こどもたちに夢も希望もあたえられないままに、画一的なテストをおこないつづけ、点数をつけ、劣等感ばかりを植え込む教育に、失望を禁じ得ません。
もちろん、妻は教師として現場で働いていますから、現場の先生方が、苦労していることも、すこしは理解しているつもりです。
そういう意味で、子どもたちばかりではなく、先生方も、今の学校教育システムの犠牲者のように、私には見えます。
子どもに向き合う時間がとれないほどの、さまざまな事務仕事、雑用があり、くわえてトラブルや父母との対応に追われる日々。
この環境において、子どもたち一人ひとりに寄り添う教育を期待することは、酷といわざるをえない。
そのような劣悪な環境に置かれながら、奮闘している教師がおられることも知っています。
申し上げたいことは、現場がいくら頑張っても、システムが悪ければどうにもならず、真面目な先生ほど、潰れてしまうということです。
なぜ、一人の先生が、一つのクラスの全責任を負うのでしょう。
様々な習熟速度の子どもたちがいるクラスを、一人の教師が全部背負い、みようとするのは、もう限界なのではないか?
いや、すでに破綻しているんじゃないか。学級崩壊の多発という形で。
クラスの枠組み、学年の枠組みさえこえて、こどもたちの発達状況によりそう教育システムを構築できないのか?
そもそも社会において、同じ年齢でくくられつづけ、その閉鎖されたせかいのなかで点数をつけられ、比べられつづける、特殊な現場が、学校以外にあるでしょうか?
学校に行かなければ、社会性が身につかないという意見もありますが、この社会は、年齢的にも能力的にも、多様な人々によって構成されているのであって、学校という、画一的で偏った社会で身につける社会性に、なんの意味があるのか、という話でもあります。
これから社会は、テクノロジーの進歩によって、産業の構造が大きく変わっていきます。
同じ品物を、大量に安く作って、消費する、大量消費社会はとっくに過ぎ去り、今までとは違う、新しい価値を提供する産業へとシフトしていくことでしょう。
にもかかわらず、その新しい時代を生きる子どもたちの教育が、
画一的な統一カリキュラムでいいのでしょうか?
広く世界を見渡して、これからの時代をいきる子どもたちの力を、
ちゃんと引き出していける、公の教育システムを、
一刻も早く見出し、移行していただきたいというのが、
この与太話で言いたかった、結論なのです。
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