2019年9月。虐待死した船戸結愛ちゃん(当時5)の事件の初公判が始まっています。
出廷した母・優里被告は起訴内容を認めつつ、夫・雄大被告の報復が怖かったのだと、証言したことが報道されています。
なぜ親による子どもへの「虐待」が起こるのか?
これは特別な出来事なのか?。それとも数知れない「虐待」の、氷山の一角なのでしょうか?
●親と子という親しい関係ゆえに起こる
現代において子どもへの「虐待」が起こる現場は、当然ながら、親子関係においてです。
親子関係でないのに、子どもに対する暴力が行われたら、すぐに問題が表面化するはずです。
ですから皮肉なことですが「虐待」が起こる現場は、「敵対関係」ではなく、むしろ「親しい関係」において、起こり得るということです。
よく聞く話ですが、親は子どもを「しつけ」ていたつもりが、「行き過ぎた暴力」「虐待」になってしまった、という話も、親子関係ゆえに起こることです。
同様のことは、高齢の親を自宅で介護する子が、言うことを聞かない親にイライラして「行き過ぎた暴力」を振るってしまうケースにも当てはまるかもしれません。
「自分の親は、自分の手で面倒見たい」という「愛情」がかえって、「虐待」という悲劇を招くこともあるでしょう。
つまり、親であれ、子であれ、子育てや介護において、限界を超えたストレスを抱え込むことが、「虐待」につながっていくのではないかということです。
さて、人はのべつまくなしに「暴力」を振るうわけではなく、ストレスの蓄積、イライラ、怒りの感情の高まりが、ある限界を超えてしまうことで、暴力的な振る舞いをしてしまうことを、だれもが自分の経験から知っているでしょう。
たとえば、「あなたは、なんどいったら、わかるの」という言葉が出てきているときは、すでにイライラというストレスを、自分の中に蓄積してしまっている状態です。あと少し、子どもの行動にイライラすることで、ストレスのしきい値を超え、手が出てしまう状態かもしれません。
このしきい値まで、ストレスを溜め込まないように、時折「ガス抜き」することは、誰にも必要なことでしょう。
●ガス抜きさえできない、余裕のない状況
生きていれば、職場や学校、家族など、さまざまな人間関係の中で、だれもがストレスを溜め込んでいます。
特に競争社会をいきる現代人のストレスレベルは高まっています。
溜まっていくストレスを、上手に「ガス抜き」「発散」できればまだしも、経済的にも時間的にも余裕がなく、助け合う人間関係もない、「貧困状態」に置かれた家庭にあっては、「虐待」が生み出される可能性も高まるように、思われます。
●そもそも親だけが子育ての責任を負うのは、あたりまえか?
そもそも、「貧困」と子どもへの「虐待」は関係あるのではないかと、以前から言われてきました。しかし、実際には、貧困ゆえの「虐待」の姿は、時代とともに変わってきたのです。
かつて日本全体が「貧困」状態だった時代の子どもたちは、女中や子守や芸妓や丁稚や工員として働かされました。これもある意味、子どもに対する「虐待」です。
現代は、そのような形で、子どもを「虐待」することは、ほぼなくなったといえます。
その結果、残ったのが親による「虐待」です。親以外の「虐待」が無くなった結果、むしろ「虐待」は親が行なうもの、とイメージされるようになりました。
それは、親が家庭の中で、子どもを一人前になるまで育てることが当たり前の社会となったことを意味しています。
しかし、その当たり前は、本当に当たり前なのかが、親による子の「虐待」事件の増加傾向によって、問われています。
親だけが子育ての責任を負うのが、当たり前。その当たり前とされてきたあり方の限界こそが、今、問われているようにおもうのです。
子育てを、親だけが抱え込まないで、社会とともに、育てていける環境。
それが、子どもたちを「虐待」から守る、あらたな道筋かもしれません。